中日国交正常化は、両国人民の共通の願いであった。国交正常化の前から、中日両国はすでに民間レベルでの貿易・文化交流を始めていた。毛沢東、周恩来ら中国の指導者は日本の友人と会見した際、中日関係の正常化を希望する旨を重ねて表明し、日本の政界、経済界、文化界の多くの人たちも同様の願いを表明していた。
1972年、田中角栄氏が日本国総理大臣に就任し、中日関係に転機が訪れた。7月5日、田中角栄氏は、総理大臣に就任したその日に、中国との国交正常化を加速させるという談話を発表し、7月9日夜、周恩来総理はこれを、「歓迎に値するもの」と公に表明した。7月10日、日本政府は、二階堂進官房長官の談話という形で、「政府の日中国交正常化に寄せる熱意は、中国側の充分な理解を得ており、これはすばらしいことである。政府は、今や、日中政府間の接触の機会が熟しつつあると見ている。したがって、私は、今後政府の責任は日中国交正常化の具体的な方策を検討することであると見ている」と、表明した。7月22日、大平正芳外相が日本を訪問していた中日友好協会の孫平化副秘書長一行と会見した際、孫平化氏は中国政府を代表して田中総理大臣の訪中を招請し、田中総理大臣はこの招請を受け入れた。
7月16日と19日の二回、周恩来総理は、田中角栄総理大臣の中国訪問の日程調整のため訪中した日本社会党の佐々木更三元委員長と会見した。更に7月26日、周恩来総理は竹入義勝氏と会見して、田中総理大臣の訪中について突っ込んだ打ち合わせをし、7月28日と7月29日にも、続けて竹入氏と会見して、中日共同声明の草案として、八つの案と三つの黙約事項を提出した。
9月12日、周恩来総理は、日本政府の『共同声明』の草案を預かってきた古井喜実氏と北京で会見した。
9月25日北京時間11時30分、歴史的瞬間がついにやってきた。日本国の田中角栄総理大臣一行を乗せた特別機が北京空港に着陸し、タラップを足早に降りてきた田中総理大臣は、特別機の傍らまで出迎えた周恩来総理とかたく握手する。中国の国旗と日本の国旗が同時に空港上空に翻り、軍楽隊が両国の国歌を奏でた。
午後、周恩来総理と田中総理大臣一行は人民大会堂で会談した。会談は打ちとけた雰囲気の中で行われ、時には笑い声も聞こえてきた。田中総理大臣は、「アメリカやヨーロッパ訪問では、外国にいる感じがしたが、今日北京の青空を仰ぎ見たとき、日本のわが家にいるような親しみを覚えた。こうしたことからも、日中両国は友好関係を永遠に保っていくべきだと思った。これが今日、私が感じたことだ」と、語っている。
9月26日、双方は二回目の首脳会談を行った。9月27日午前、田中総理大臣一行は万里の長城を見学し、午後に三回目の首脳会談が行われた。9月27日夜、毛沢東主席は中南海で田中総理大臣一行と会見し、『楚辞集注』を田中総理大臣に贈っている。9月28日午後、双方は四回目の首脳会談に臨み、共同声明の内容に対し最後の詰めを行った。周恩来総理は田中総理大臣に、「我々は国交正常化を進めるに当たり、まず信義を守らなければならない。これは最も重要なことである。我々は外国とのつき合いで、ずっと信義を守ってきた」と、述べた。
9月29日、『中華人民共和国政府と日本国政府の共同声明』が発表された。これにより、両国間の不正常な状態に終止符が打たれ、国交正常化が実現する。中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明し、日本政府は、この中国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持することを表明した。
これによって、中日両国の関係史の新しい一ページが開かれたのである。
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