中国仏教協会の会長であった趙朴初氏は、中日仏教界の往来と両国の文化交流を促進するため、半世紀以上にわたり何度も両国の間を往来した。趙朴初氏はかつて中日の仏教について、「同じ流れを受け継ぐ中日の仏教は、両国人民をつなぐ架け橋であり、絆(きずな)である」と語っている。
戦後の中日民間交流が始まって間もない1952年、趙朴初氏は中国仏教界を代表して日本仏教界に一体の観音菩薩像を贈り、両国の平和と友好を祈願した。
1955年、趙朴初氏は中国仏教界を代表して日本を訪れ、広島で開催された原水爆禁止世界大会に参加した。この訪問で東本願寺の大谷瑩潤師と面会した趙朴初氏は、戦争中に境内に建てられた反戦の碑に深い感銘を受け、この大会に毎年参加することになった。
1962年、鑑真入寂1200周年のこの年、趙朴初氏は共同で記念行事を催すよう積極的に両国の仏教界、文化界に働きかけた。その結果、中国では「法浄寺」と改名されていた鑑真ゆかりの寺の名が、鑑真が住んでいた当時の「大明寺」に戻され、鑑真記念堂が建立された。一方、日本では1962年と63年を「鑑真の年」と定め、日本の人びとがそれぞれ記念行事を催し、大都市の通りには鑑真を称える標語が掲げられるようになった。「先徳を記念して、歴史を忘れず、子々孫々の友好を」と、趙朴初氏は日本の友人に語っている。
1980年、趙朴初氏と日本仏教界の努力のもと、奈良の唐招提寺に安置されている日本の国宝中の国宝、鑑真像が「里帰り」を果たし、中国で展示され、両国で話題となった。
中日友好という共通の願いをもと、趙朴初氏は京都の清水寺の大西良慶師をはじめとする日本の宗教者と深い友情を結んだ。1960年、すでに80歳を超えていた大西良慶師は「日中不戦の誓い」を発起し、自ら街頭に立って署名を集め、趙朴初氏に分厚い署名簿を贈った。また、1982年に趙朴初氏が訪日した際、108歳の大西良慶師は、「私は限りのある歳月を、あなたを待って過ごしてきた。中日両国の仏教界の友好は、両国国民だけでなく、世界に資するものである」と、趙氏に語りかけている。
1981年、日本仏教会は趙朴初氏に「仏教伝道功労賞」を贈り、「日本仏教大学名誉博士」の称号を授与した。また、1985年には「庭野平和賞」が贈られている。
2000年、趙朴初氏は世を去ったが、趙朴初氏と日本仏教界、そして日本の人たちとの間に結ばれた友情は永遠に不滅である。
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