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靖国神社ドキュメンタリー映画の制作が完成
発信時間: 2007-11-08 | チャイナネット

答 使っていない。私は映画を学術的論証として作るのではなく、一定のゆとりを残した方がよいと思っている。このことは簡単な言葉ではっきりと表わせるものではなく、現象の複雑性と彼らのナショナリズム的心情を顕在化させ、彼らの気持ち、その中における天皇の存在を通じて、人々に考えさせる方がよいのではないかと思っている。

問 私は、あなたの表現は非常に抑制的で、できるだけ主観色を残さないようにしていると感じている。

答 その実、この映画には私の強い主観的なものがあり、私はできるだけそれを抑制した。ドキュメンタリー映画を客観的なものにすることは不可能である。いくつかの日本人映画評論家の言葉では、その実、これは中国の武術と日本の剣道との対決のようである。私は別にすぐ相手を倒そうとするのではなく、ずっと相手に手を出させ、相手が手を出すと、その破綻が見え、逆にあなたが意図を表す時には、彼はすでに反抗の能力が失っているのだ。1つの見方を表現する時、みずからと相手を知らなければならず、自分の訴求を表わすだけではだめで、相手がどうのように考えているのかを知らなければならない。

問 歴史問題で具現されている中国と日本の文化の違いは何か?

答 中国は近代にお化けや神の伝統を打破したが、日本はまだ祭祀に対して畏敬の念を保っている。多くの日本人学者は、彼らの伝統はずっと続いてきたものであり、中国のそれはたえず中断し、頻繁な王朝交替の過程で多くのものが消え失せてしまったと見ている。彼らは天皇の存在を強調し、自分の国は神の国で、神の国は不滅であり、天皇は最高の象徴であると考えている。これも日本文化の自己優越感の潜在的なエッセンスである。問題の複雑性はほかでもなくここにあり、彼らは靖国神社の祭祀は天皇の尊厳と儀式であり、簡単にこの伝統を否定すれば、日本の最も重要な儀式はなくなっってしまうと思っているため、それを受け入れない。彼らは戦争の問題と戦争の責任の問題を冷静に持ち出して考えることを知らないのだ。

問 映画の中に何か表現できないものはなかったのか?

答 私は映画の中で、すでに私の方法で自分の認定している靖国神社の魂は何かということを表現しており、映画を見る人たちがいろいろな面から自分の結論を引き出すことができると思っている。私はずっと人間の命、死、魂などの問題に関心を持っており、個人の存在と国との関係ということもこの映画の非常に重要な話題の1つである。

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