文/趙 月
2007年末のある暖かな午後、北京市海淀区にある李可染芸術基金会の事務所に、日本の京都造型芸術大学教授で画家の李庚氏を訪ねた。学者然とした李庚氏の語るところによると、今回の帰国は主に、基金会に協力して父親である李可染生誕100周年記念イベントの準備を行ったり、李可染の過去の講演原稿や書簡、解放前後の中国(美術)教育に対する意見、中国古典と現代絵画に対する所見などの貴重な資料を整理するためだという。
20世紀で最も影響力を持つ芸術家である李可染の末っ子として、1950年に生まれた李庚氏は、幼い時から絵画と芸術に関心をもっていた。青少年時代、極めて困難な環境にあっても、氏はずっと細密•重彩画の研究に没頭していて、特に水墨画を深く愛していた。「読書と乗馬が好きで、スケッチがうまい」と友達は彼を語る。「父の芸術と生活に対する態度は、私に強い影響を与えました。彼は実践の中で努力し、奮闘の生涯を送りました。その積極的な人生態度はずっと私を励まし続けています。」
1980年代、若い李庚氏は日本の文豪井上靖に注目され、日本文学界•芸術界へ紹介されて、美術界で認められることとなった。この後、彼は日本へ留学し、在学中から美術大学に招聘され、教学と研究に従事し、そこで明治維新後にすたれていた水墨画の課程を開設した。80年代に、氏は日本画の研究室でわずかな外国籍指導教官の一人となった。「日本で教え始めた当時、多くの日本人教授は私が教えることに不満をもっていたようです。哲学者である学長は、このような人々に向けて次のような文章を書きました。『大陸からの一人の人間、それもただの留学生にこのように騒ぐとは、日本美学の度量が非常に狭いため、たった一人の中国人も受け入れられないとしか思えない。これからのち、何千何万もの中国の絵画の達人が日本に来たらどうするのか? いま、この中国人をここに置いて、日本絵画界に免疫力をつけたいと思う。』この学長の文章は、私への最高の評価だと感じました。いかなる芸術も世界という広い基礎の上に立脚すべきで、広い受容力を持つべきだと私は思っています。」また、違う文化•美学を混同するのはよいことではなく、競合して共倒れになる。文化の違いを見極めたのち、その要素を組み合わせたり排列し直したり、一部の段階を入れ替えたりすれば、文化•芸術の伝播と進歩に大いに役に立つと、氏は語った。
李庚氏の作品、「雲の中のパラダイス――ナムチャバルワ(南迦巴瓦)」
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