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中国自動車産業の30年間の移り変わり
発信時間: 2008-03-31 | チャイナネット

国有自動車企業の迷走

 

2003年11月6日、同済大学自動車学院の学生が設計•開発した四輪駆動車「春暉二号」が多くの見学者を引き付けた

国民経済の重要な柱として、自動車工業は中国の経済体系の中で疑いもなく非常に重要な地位を占めている。しかし、それがために、中国自動車産業の開放も、足を一歩前に踏み出すのが非常に難しかったといえる。

北京吉普に続く2番目の中外合弁会社は上海大衆であった。1983年に上海大衆はCKD(完全部品組立)により、ドイツのフォルクスワーゲン社の「サンタナ」を購入した。1985年3月、上海大衆公司の合弁会社が設立された。いったん外国製品の組み立てを始めれば、部品の国産化問題に発展するのは時間の問題である。「サンタナ」組み立て開始後3年で生産台数は1万台を上回ったが、国産化率はわずか2.7%だった。80年代の中国は外貨不足で、長期的にCKDの生産方式を続けることは、国家政策の目標と相反することにもなった。1987年、国家は3年以内に国産化率が40%に届かなければ、上海大衆を閉鎖するとした。この圧力の下で、上海市は1987年に「サンタナ」の国産化プロジェクトを開始した。

戦略重点のこの転換は、上海自動車工業の構造に根本的な変化をもたらした。上海大衆が成立した時、中国側の出資者である上海汽車工業公司は相変わらず、自分の製品と体系を保っていた。「サンタナ」国産化が中心目標となった後、上海市政府と上海汽車公司は上海大衆が上海汽車の自動車工場を併呑する(併呑後、工場でもともと生産されていた「上海」ブランドは放棄)と決定した。その上、上海汽車の傘下の企業は全部、サンタナ部品の生産を目標として、再編と技術改造が行われた。このため製品国産化の戦略は、結果として上海自動車工業に「上海」ブランドの乗用車と積載重量トラックの生産を放棄させることにもなった。

サンタナ国産化は、のちにその成功を長く語り継がれるような見事な成功を収めた。1990年、サンタナ部品国産化率は60%に達した。1997年には部品国産化率は90%以上となった。しかし、導入製品国産化の成功は、別の代価を支払うことになった。上海自動車工業は自分がかつてもっていた乗用車の生産、自主ブランド、開発の足場を失ったのである。80年代末から90年代の初めにかけて、中国最大の自動車企業、一汽と二汽は相次いで合弁の道を行った。

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