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中国自動車産業の30年間の移り変わり
発信時間: 2008-03-31 | チャイナネット

中国ブランド自動車の出現

1990年5月、上海大衆汽車有限公司の中独両国の技術者たちは乗用車の組み立て技術を研究している

高価格と技術コントロールから得られる利潤手段(利潤の割りあて、さまざまな名目の技術移転費、部品供給、設備の購入など)で、合弁会社によってグローバル企業が中国市場から得る利潤は巨額にのぼった。上海大衆が乗用車生産をはじめて20年で、サンタナの販売価格は20万元余りから9万元余りまで下がった。しかし、1998年と1999年の2年間で、23万台余りの乗用車を生産した上海大衆は、あいかわらず約60億元の利益を獲得している。ゴールドマン•サックス社の研究報告によると、ドイツのフォルクスワーゲン社の2003年上半期の利益の80%は中国から得たものである。その同期の1株あたり1.54ユーロの利益の中で、中国が1.30ユーロの貢献をしているという。

90年代末のWTO加盟後、中国は市場開放という承諾条件の下で、外資進出の制限をゆるめた。それと同時に国内民営資本の制限も解除した。民営自動車企業が生まれた1つの重要な要因は、個人の自動車需要が引き起こしたものである。1995年、自動車総販売台数の中で個人購入者が占める割合は30%であったが、2000年の個人購入者は50%以上になった。個人消費者と商用消費者の根本的な違いは、前者の価格に対する敏感さが後者よりもはるかに高いことである。そのため、自社開発の製品は品質と技術水準の面で欠点が存在しているにもかかわらず、その低コストでの製造能力によって、個人消費者の市場の中に生き残る空間を見つけることができたのである。このため、市場開放の規制緩和と個人の自動車消費の増加が自社開発企業の成長の客観的な条件となった。

奇瑞汽車有限公司は最も代表的な中国民族自動車企業である。1997年3月18日に着工、1999年12月18日に奇瑞乗用車の最初の1台が完成した。これは驚くべき速度であるにもかかわらず、最初は安徽省蕪湖市のある村経営の工場に過ぎなかった。1992年から1993年の経済バブル期に蕪湖市の村経営の工場で、一年で数百台の乗用車を生産した。それは1億元余りの価値に値する。この現象は経済が遅れた地方の指導者の注意を引き、乗用車を生産するというアイデアが生まれた。1995年に蕪湖市代表団が一汽を見学した時に、蕪湖出身の尹同耀さんと出会った。尹さんは1983年に合肥大学自動車工業専攻を卒業してから、一汽で12年間半働いていた。この同郷の人材を見つけてからというもの、蕪湖市は尹さんに、蕪湖に戻って自動車関係のプロジェクトを管理してくれるように、熱心に頼んだ。尹さんは相手の真心に心を動かされ、とうとう蕪湖に戻った。尹さんは自分の同級生魯付俊さんと高立新さんを「騙して」蕪湖につれて来て、雑草が生い茂る空地を、ここが発動機工場で、ここが研究開発センターで、ここが組み立て工場で、と嬉しげに二人に紹介したのだった。

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