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瞿麦氏、漢語俳句によって中日に橋を架ける
発信時間: 2008-06-20 | チャイナネット

于 強

瞿麦(別名、瞿朱実)さんは、上海市対外文化交流協会の常務理事で上海俳句研究交流協会の会長でもある。また、かつては上海国際問題研究所の日本室主任という役職に就かれていたベテランの日本語翻訳家、学者である。彼は中国語俳句(漢俳)によって中日に橋を架け、中日友好の美しい絵に濃厚な1筆を添えた。

瞿麦氏は台湾彰化県の読書人の家庭に生まれ、幼いころから唐詩、宋詞を熟読し、中国の伝統文化が好きであった。台湾で教育を受けたため日本語に精通し、また一定の文学的基礎があったため、後に大陸に戻り中日文化交流の仕事に従事する際には、これらがかけがえのない強みとなった。

古代中国の漢詩は日本へ渡り、和歌、連歌を生み、そこからまた俳句が生まれた。そして日本の俳句は中国へ戻り、漢俳が誕生した。漢詩を祖先とするなら、漢俳は孫とでも言おうか。中日の漢俳・俳句交流は、中日文化の淵源を辿る関係を映し出すばかりか、中日国民の相互理解を深め、友誼を促進するものだ。

瞿麦氏は中日の漢俳・俳句交流の創始者であり、橋を架けた人物だ。彼は1960、70年代には上海で日本語のベテラン翻訳家として『毛沢東選集』の日本語訳に携わり、1972年に上海バレー団が日本を訪問し中日国交正常化の序幕を切った際には訪問団の秘書を担当した。上海と大阪、横浜が友好都市関係を樹立する際にも、彼は通訳、連絡の任務を担当した。同氏はかつて早稲田大学、神戸学院大学、二松学舎大学、岐阜経済大学で客員教授となり中国文学の授業を持ったこともある。彼は日本の文化界、教育界に多くの友人を持っているが、中でも俳句関係の友人らとは漢俳・俳句の交流を進め、日本伝統俳句協会の顧問まで担当した。

1992年4月、日本の伝統俳句協会の一行40数名が伊藤柏翠副会長の引率のもと、瞿麦氏を副団長兼講師として北京、西安、桂林を訪れた。観光後、上海の花園飯店で「中日友好漢俳・俳句交流会」と銘打った催しが行われた。上海の著名な文化人である杜宣、羅洛、王幸笛の各氏ら数十名が参加し、各自が自分の作品を吟じた。これは、中日初の漢俳・俳句交流会であり、また同時に漢俳・俳句集『杜鵑声声(ホトトギス)』を出版して中日の漢俳・俳句交流に新たなページを切り開くものでもあった。

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