日本航空は毎年、「世界こどもハイクコンテスト」を開催しており、すでに10回を迎えるとともに特集本も出版された。瞿麦氏は、中国地区でこどもハイクの評価・選考にあたり、選考した漢俳をハイクに訳して日本航空の審査会へ送る責任者となった。彼は招聘されて日本の国際俳句協会の評議員にもなった。中国の子どもの漢俳に対する興味と愛好を培うため、彼は上海少年宮へたびたび出向き、コンテストに参加する児童を指導したため、上海の子どもらの漢俳は群を抜いており、賞を獲得している。例えば楊くん(8歳)が受賞した漢俳は「無数水宝宝/赤橙黄緑青藍紫/架成彩橋」(たくさんのお水の赤ちゃん/赤、だいだい、黄、緑、青、藍、紫/たくさんの色の橋をつくった)という純真で愛らしいものだ。
瞿麦氏は漢俳を学ぶ子らを養成して日本との交流を推し進めるだけでなく、上海の外事翻訳者協会に「俳句・漢俳研修班」を設け、講義を行うとともに彼らの作品の添削を行い、日本との交流活動も組織している。
2007年12月、中日国交正常化35周年の折りに瞿麦氏は上海外事翻訳工作者協会の支援のもとに、上海の魯迅記念館で「中日詩歌交流展」を開催し、日本俳句協会の会員および上海駐在日本総領事館の文化領事、上海の漢俳・俳句愛好者など数百人が参加した。交流展では中日の漢俳、俳句、短歌など多岐にわたる作品が出展され、特集本が出版されたが、中国側の出展者の多くは瞿麦氏の薫陶を受けた人々であった。交流展終了後、これを機に「俳之橋詩苑」が設立された。瞿麦氏が中日の漢俳・俳句交流の道を切り開いたことは、中日文化交流史上に輝かしい1ページを留めることだろう。
「北京週報日本語版」 2008年6月20日
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