「天下第一の兄嫁さん」という評判をとってから、王馥荔(ワン・フーリー)さんは次第に映画界における実力派女優の地位を確立していった。都市で生まれ育った彼女だが、いっぺんに有名になった最初の役柄は、農村の女性だった。その後、また数人の農婦を演じた。守備範囲の広がるにつれて、インテリや高官の夫人、ひいては娼妓などさまざまな役柄にも優れた才能を見せ、だれもが知るスター女優となった。百花賞(注1)に2回、金鶏賞(注2)に1回、金鷹賞(注3)に1回輝いたうえ、06年にはさらに全国で「徳芸双馨 」(職業モラルを持つとともに、芸術への造詣も深い)芸術家の称号を授与された30人のうちの1人となった。 今年はまた、念入りに選んだ10首の歌と京劇の1節を盛り込んだCD「生命は一本の木」を発売した。芸術表現が豊かで、人柄が優しいため、国内には老若男女を問わず、ファンがたくさんいる。それだけでなく、海外にも彼女の映画を好んで観てくれるファンがいる。彼女はすばらしい演技を観客に提供するとともに、自分の多彩な人生を紡いできた。
京劇の花形役者
彼女は中華人民共和国成立の年に3人兄弟の末っ子として生まれた。京劇が大好きな父親は、家に京劇関連の仕事に従事する子供がいたらいいとずっと願っていたため、11歳でまだ小学生の王馥荔さんは、学校へ学生の募集に来た江蘇省戯曲学校に応募し採用された。京劇の稽古が始まってまもなく、演技の型に厳しい決まりがある京劇に物足りなさを感じたため、時々こっそり新劇クラスに紛れ込んで講義を聴講することになった。京劇クラスに王馥荔さんがいなければ、新劇クラスにいるに違いない、と先生たちは誰もが知っていた。新劇クラスの先生は王馥荔さんを気に入って、京劇クラスの先生に自分のクラスへの移籍を求めたが、京劇クラスの先生は、彼女のために京劇の一幕のリハーサルをして見てから決めると答えた。リハーサルの結果、うまく役柄を演じて前途有望な京劇の後継者だと見なされ、ついに新劇クラスに加わることができなかった。このことを後悔していないかとの質問に対し、彼女は「京劇の稽古こそ、演劇のためのしっかりした基礎を打ち立てたので、後悔はしていない」と答えた。
今年5月訪日期間中に、日本側の歓迎レセプションで京劇の1節を歌う王馥荔さん
1967年に戯曲学校を卒業した後、江蘇省京劇院に配属された。容姿も声もきれいで、基本的な修業もしっかりと身につけていたため、「青衣」(京劇の女役の一つ。主として貞淑な中年または若い婦人の役)を学ぶよう京劇院のリーダーたちに決められた。京劇では、「青衣」は女役として最も条件を具えた人でなければ学べない役柄で、これを身につけるのは容易でない。彼女は骨身を惜しまず努力を重ねた結果、リーダーたちの期待に背かずに京劇院の大黒柱となり、前後して「沙家浜」「竜江頌」「平原作戦」など現代京劇の主役をこなし、芸術的天分を十分に現した。