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中国の若者 知っているようで知らない日本
発信時間: 2008-08-24 | チャイナネット

「日本」と言えば、脳裏に多くの場面が浮かび、心のなかには独特の友情が湧いてくる。どう日本を形容したらいいのか。あれこれ思慮し、ある歌の名を思いついた。「最も熟知した見知らぬ人」。あるいは、これが日本に対して私の心に深く刻まれたものかもしれない。

普通の中国の青年、学生として、これには深い体験と認識がある。私たちは日本に対してこのように熟知している。中国と日本は海を隔てて向かい合い、私が住んでいる都市・上海から東京までは、直線距離にして2000キロにすぎず、飛行時間も3時間以内だ。地理的な近さと至便性、これがもたらしたのは文化面での頻繁な交流と往来である。唐代の日本の遣唐使から、鑑真和尚が日本に渡った壮挙まで、日本は唐文化の一部となり、今日でも、日本では依然として濃厚な唐代の遺風を発見することができる。こうした文化的な類似性が私たちにもたらすのは、心理的な親近感であり、あたかも日本は私たちの熟知した一つ壁を隔てた隣人のように思える。

しかし、近代以降、日本は徐々に私たちにとって見知らぬ存在となっていった。第二次世界大戦の洗礼を経て、侵略と反侵略闘争の血腥い深く刻まれた記憶が、日本の姿をこれまでに見知らぬものに変え、人びとは見分けることができなくなった。

こうした熟知していながらも見知らぬという意識のなか、中日両国人民の間に残されたのは、恨みや憤り、わだかまりや猜疑心だけだった。私たちは面する日本人が何を考えているか分からず、そのために不安を感じている。戦争が再び訪れるのかどうか知るよしもない。

私たちは永遠にこのように対立を続けて、ある種の蓄えられた力が爆発するのを待つのだろうか。それとも、主動的に交流の橋を架け渡すことで、平和と友好の気持ちを伝えていくのだろうか。21世紀の今日、情報は日ましに発達し拡大しており、私たちが恨みに任せて両目をふさぎ、激しい憤りをもって理性を抑えつけ、偏見と敵視を帯びた目で戦後の日本を眺め、自らの想像で幻想的な日本のイメージをつくるとすれば、私たちが認識を停滞させ、思考を自ら束縛するのは必至だ。これは中日どちらにとっても何ら益はない。

私たちがこうした一切を投げ捨てて、公正かつ客観的に日本を観察すれば、私たちは、別の異なる日本が私たちの自覚的あるいは無自覚的な軽視の底に潜んでいることを発見するだろう。私たちは日本人民の友好的な一面を発見するだろうし、日本の多くの民間団体が平和運動に従事していること、そして宮崎駿氏の映画のなかに深く浸透している平和と反戦の願いを発見することだろう……。私たちがビン川大地震後に、日本国際救援隊員が見せてくれた一意専心的で仕事に誇りをもつ姿、とくに隊員たちが粛然と死者に哀悼の意をささげる情景を目にしたとき、その瞬間、ヒューマニズムは国境を越え、すべての恨みは雲散霧消し、誰もが感動したのではないか、と確信している。その瞬間、私たちは本当に救援隊員と彼らの背後にいる日本の民衆に深く感動させられた。その瞬間、涙がきらめくようだった。

文化の差異はこの世界を豊富多彩なものにし、同時に私たちは喜びと交流への渇望を発見した。一般民衆の間の交流と往来を絶えず増進させて初めて、国と国との間の友好は培われ、理解と相互信頼も深まっていく。胡錦涛主席が語ったように、「歴史をしっかりと心に刻むのは、恨み続けるためではない」。恨みの種を埋めるのは非常に簡単であっても、恨みという創傷を静かにさすり、民族間の和解を達成するまでには、長期にわたる困難な過程を経なければならないのは間違いない。いつになったら私たちはこうした恨みを消して、歴史の悲劇を再演させないことができるのか。これは中日両国の青年がともに立ち向かい、力を合わせて達成しなければならない歴史的使命である。

仏独の間では2回の世界大戦による「曇天」を乗り越えて恩讐は消え去り、中米間では広大な太平洋を越えて友好の握手を交わしているのだから、中日の間も歴史の重みを乗り越え、麗しい未来をともに築けるのではないか。第29回オリンピックが北京で開催されている今、私たちは歴史の先入観を捨てて、私たちの日本の友人たちに、心の底から「北京へどうぞ」と叫ぶことができる、と私は期待している。

(上海・周暁圓)

「チャイナネット」2008年8月24日

 

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