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四川省の鐘志紅:あなたを待ってます、見知らぬ友
発信時間: 2009-03-18 | チャイナネット

施設は人の波でごった返しており、あちこち騒がしかった。子供を落ち着かせ、私もやっと息をつく暇ができた。道ばたに座ると"眼鏡さん"は、旅行バッグから水とビスケットを出してよこした。「食べ物を補充しないとね。これから力が出ないよ!」その手には包帯が巻かれているのが見えた。

彼が中曽一雄さんという日本人だとは分かったが、具体的な住所や勤務先は教えてくれなかった。彼は、「旅行団の責任者が心配しないよう電話をしたいから、携帯電話を貸してください。」と言った。ちょうど取り出した時、彼は何かを耳にしたのか、立ち上がると医療施設に走って行った―。

「ドクター、私はAB型です。私の血を使ってください!」そう言いながら袖をまくる姿に、私は何か教えられた気がした―私の血液もAB型なのだ。私たち二人から200mlずつの血が、ある老人の体に流れ込んでいった―。

日本人の名前の由来は知らないが、聞いた感じでは、私たちは同姓(鐘と中は共に、"zhong"と発音)らしい。意外なことに血液型まで同じだ。

すっかり夜が明け、私たちが足を負傷した被災者を支えて臨時医療施設に戻った時、その前に送られてきた一ヶ月にもならない新生児を目にした。その子には確かに温もりが残っていたが、医者はどうしても脈を感じとることはできなかった。温もりは、抱えてきた父親のそれだったのかもしれない。その時、子供の父親が、突然、"ばさっ"と医者の前に跪き、命などどうなっても構わないという勢いで頭を地面に叩きつけた。「お助けください。この子にもう一度チャンスを下さい。この子を助けて。まだ生まれて13日なのに!」

中曽さんは全くためらわず、道義的に後へは引けないとばかり、亡骸の小さな唇に口をつけ、吸っては吐いて人工呼吸をして―。

後に中曽さんは、こんなことを話していた。「生命のはかなさに対しては無力であり、できることと言えば、子供を失った父親を慰めることぐらいだった。この出来事が、生まれて28年のうちにしたことで最も誇れることかもしれない。」と。

だが、私にとっては、最大の心残りがこの時に生じてしまったのかもしれない。用を足す場所を探していて、戻った時には、中曽一雄さんの姿が見えなくなっていたのだ。

それから数日間、その姿を見つけ出すことはできなかった。連絡を取れる手段など彼から全くもらってなく、知っている氏名の綴りさえ正しいかどうか怪しいものである。

この文を書いているのは、震災から4ヶ月以上も後である。この兄弟がどう過ごしているのか、自宅に帰ったのかも分からない。もし、可能であれば、2008年5月12日の夜、13日の夜明け頃、都江堰市街地で救出活動を共にした四川省の友へ連絡を下さい。あなたを待っています。一緒に青城山へ行きたいのです。

「中国国際放送局 日本語部」より2009年3月18日

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