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北京大学研修団、「日本歴史文化を体験して」
発信時間: 2009-08-17 | チャイナネット

文=周菲菲(北京大学大学院・院生)

先駆者の一員として、私は今年7月12日、初の北京大学日本歴史文化研修団に参加し、日本へ旅立った。北京大学日本語学部の滕軍先生を指導教官とし、中国国際旅行社の手配により、総勢37人の研修団一行は半月の研修コースで、日本の福岡、佐賀、志賀島、奈良、京都、大阪など、日中文化交流史に色濃く刻印された各所に、新たな足跡を残した。

 

―福岡、佐賀、志賀島で日中交流の原点を訪ねて

7月12日の昼、福岡空港に着いたとき、偶然にも、15メートルもの山笠を発見した。なんと、博多の最も盛大な祭りで、日本の重要無形民俗文化財に指定されている博多祇園山笠に出会ったのだ。華麗な山笠の写真を撮りながら、本格的な祭りの盛況を求めて、私たちは次の日に山笠祭りを見に行くことにした。

 

福岡市歴史博物館の前で「日本歴史文化考察団」の一行

 

13日、町を駆け抜ける豪快な山笠祭りを短時間見た後、謝国明の墓を訪ねた。謝国明は日中交流史における伝説的な人物である。南宋年間、氏は臨安府(杭州)に生まれ、後に「謝太郎国明」という名前で日本に渡来し、博多総鎮守の櫛田神社の近くに住み、商人として博多の綱首となり、中世博多の発展に尽力した。そのうえ、禅僧の円爾弁円(えんにべんえん=後の聖一国師)を援助して入宋させ、私財を投げうって承天寺を創建し、弁円を開祖とした。

謝国明の墓は山笠祭りの会場でもあるので、そこでも山笠の衣装を着けているお年寄りに出会った。私たちが中国から来た学生だということを知り、そのお年寄りは山笠の起源をめぐる伝承を話してくれた。

「いまを去る730余年前、ここは承天寺の境内でした。当時飢饉と疫病が流行っていた博多で、謝国明は承天寺の開山・聖一国師と一緒に、施餓鬼棚を担ぎまわらせ、法水をまいて疫病封じをしたのだそうです。後にその形が伝承され、施餓鬼棚が祇園祭の山笠となった」という。

お年寄りの話によると、謝国明は九州の恩人で、疫病退散と幸福を祈る祭りを創始したばかりでなく、そばがき、鍼灸など、いろいろな技術を日本人に教えたそうだ。

「日本文化の70%、いや80%以上は、中国文化が朝鮮半島を経由して、この博多に伝わってきた。だから、日本の歴史はこの福岡から始まったといっても過言ではありません。恩を忘れるものは人間ではありません。日本文化の源は中国にあり、99.9%の日本人は中国を父や母と同じように恩を感じていると思っています。15日は山笠の本番ですから、是非見に来てください。私と孫が一番前を走るんですよ」と。話を聞いていた私たちは、感動して思わず拍手をした。

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