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ポプラの鳴る季節に日本の登山家を偲ぶ
発信時間: 2009-08-20 | チャイナネット

柳の実が綿のように舞い上がる春、ポプラの葉が鳴る秋になると、私は登山家を思い出す。

大西宏さん。中国で登山のさい、遭難された日本の青年である。私はこの方と面識がない。けれど、春風がポプラの木の葉をソヨソヨとそよぎ始める季節、秋風がポプラをサワサワと吹き鳴らす季節に、私は大西さんを思い出す。

1991年9月のある晴れた日に、大西宏さんはナムジャグバルワ峰で雪崩に巻き込まれ、遭難した。28歳だった。

ナムジャグバルワ峰は海抜7782メートル、当時、世界最高の処女峰だった。ヤルンズァンポ江の大きな曲がり角の中心に位置し、チベット語の意味は、「天から落ちた石」となっている。

大西宏さんの年老いたご両親と姉は、中国側の関係者に山の上まで迎えられ、お別れすることになった。臨時に設置された火葬台の前で、山の仲間たちは、明治大学山岳会の会歌を合唱して、大西さんを見送った。明治大学は、大西さんの母校だった。

以上の経過を、私は見た訳ではない。登山家である先輩が語ってくれたことなのであるが、先輩はその時、サワサワと風に吹かれた大きなポプラの木を見上げて言った――「大西さんのご両親、身内の方は、ずーと悲痛にこらえ、平静な態度を示していました」。

日本に帰国するさい、北京空港に向かう途中、大西宏さんの父親は、先輩にこの両側の木は、何という木ですか?ときいた。秋だった。「ポプラの木ですよ」と、先輩は言った。ポプラの木は風に吹かれ、サワサワと鳴っていた。

翌年の春、大西宏さんの父親は、先輩に一冊の文集を送ってきた。その中に、ポプラについて書いた文章であったそうである。

大西さんの父親は、この文集の中で、中国の山の仲間たちに対する感謝の気持を表した。息子が生前、山の仲間から援助をうけ、楽しい時間を過ごせたことを感じ取っていたからである。

大西宏さんのことを語るとき、1998年の梅里を思い出す。

1998年、氷河で七年間眠っておられた登山遭難者の遺骸が氷河の融雪によって、人々の記憶に戻ってきた。それは、1991年1月4日、17名にのぼる中日両国の登山家が何らの音信を残さず梅里で消え去った。こののち、七年間の歳月が流れている。

遺物引き取りの会議室で、米谷扎晃さんの父親は、かつて息子のために作った雪そりを見つけた。パイプ技師だった父親は、登山のさいに装備運搬に便利なように、息子の背丈にあわせて特製したものである。雪そりを見つけたその時から、父親は、しっかりと手に握りしめていた。

工藤俊二さんは、当時20歳の大学生だった。工藤さんの姉は、彼の日記帳をみつけた。ページを繰っているうちに、涙をこらえながらも笑顔を見せている。ノートにギッシリと書き込まれていたのは、山上でトランプ遊びをしている時に記入した点数表だったからだ。――「あの子は、きっと楽しかったに違いない」。

故人を偲ぶさい、いろいろな形がある。にもかかわらず、この三人は、何としても忘れられない。逝去した三人の方は、生存者に最大の慰みをあたえてくれた。なぜなら、彼らは命の最後の時刻においても、最後は楽しいひとときをすごせたからだ。これこそ、故人を偲ぶさい、人の心を暖かく、落ちつかせるのではなかろうか!

ポプラの木の葉がサワサワと鳴っているのは、人々にこれを気付かせるために違いない。

(作者 烏豆  翻訳 曾麗卿)

「チャイナネット」 2009年8月20日

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