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1939年、広島生まれ。代表作は、自らの被爆体験をもとに描いた反戦マンガ『はだしのゲン』。父は日本画家で、下駄の絵付け職人をしていた戦時中から反戦の思想を持っていた。
1945年8月6日、原爆が広島に投下された時、本人は建物の塀の影に入って熱線を浴びずに助かったが、父と姉、弟を失い、生後間もない妹も4ヶ月後に死ぬ。
戦後、手塚治虫の漫画に惹かれ、「夢と冒険と人情のすべてが描ける」児童漫画家を目指して22歳で東京へ。その1年後に、漫画家デビューの夢が叶う。初めて手にした原稿料で買ったパレットは、現在も使っているという。上京した当初、「何とも言えない死臭が漂い、悲惨な状況が蘇る」原爆の二文字から逃げようとしていたが、母親の死で、原爆をテーマに作品を創作する決意ができた。
『少年ジャンプ』の企画した「漫画家の自叙伝 私の見たもの」で40ページの自叙伝を掲載したことがきっかけで、編集長の支持を得て、長編『はだしのゲン』の創作に取り掛かった。10巻ある作品はアシスタントに頼らず、妻と二人だけで書き上げた。作品は被害者としての日本国民の視点だけでなく、アジア諸国における日本の加害者だった立場もしっかり踏まえている。
40年前から、原爆の後遺症と思われる糖尿病を患い、眼底出血で「細かい線が引けなくなり」、『はだしのゲン』が「最後の作品」になっている。近年、『はだしのゲン』は各国のボランティアの力により、多言語に翻訳され、世界各地で読まれている。この夏、英語版の全10巻完訳に伴って、今、仲間たちとともに、核大国のアメリカ大統領に『はだしのゲン』を届ける運動に励んでいる最中。作品にこめた核兵器廃絶と平和への強烈な思いについて、インタビューしました。
■戦争と原爆の実態を伝えたい
――今年は、被爆して64回の夏となります。
いつも8月6日8時15分になると、あの惨状がワッと迫ってくる。気分が重くなる。だから、平和公園で行われる式典には、取材で一回だけ行ったが、それ以外、行ったことがない。思い出すから。テレビの中継を見ながら、鎮魂の思いで胸がいっぱいになります。
――主人公の少年に何故、「ゲン」と名づけましたか。
「げん」は元気の「ゲン」、人間の元(もと)の「ゲン」。平和を愛し、戦争と原爆、核兵器を否定していく、強い人間になれという思いをこめて名づけました。
ぼくは子どもの時、親父に、「麦のようなたくましい人間になれ」と教わりました。麦は寒い冬に芽を出して、霜や風雪に耐えて、まっすぐに伸びて、豊かな穂を実らせる。そして、それらすべてを奪っていく戦争と原爆には、どんなことがあっても反対しよう、と。原爆を地球上からなくしていかなくちゃいけない、そういう思いをこめました。
――「ゲン」は中沢さんご自身のことでもありますか。
まったくぼく自身です。家族構成からまわりの状況まで、全部事実です。それを漫画風に直しながら、『はだしのゲン』を描いたわけ。ゲンの戦後の生き方も、ぼくが体験したことと同じです。この本は、被爆した私と、同世代の人たちの戦後史でもある。鎮魂の思いで描きました。
作品を通して、戦争と原爆の実態が少しでも伝わることができれば、ぼくの役目が果たせると思っています。
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