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児童漫画家中沢啓治:人類にとって最高の宝は平和 |
発信時間: 2009-08-21 | チャイナネット |
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■手塚治虫に導かれて ――そもそも、何故、漫画家になろうと思いましたか? 親父が日本画家だから、絵のことは昔から好きでした。それと、ぼくが小学校3年の時、戦後間もない頃ですが、手塚治虫さんの単行本『新宝島』が出たのです。戦前の漫画は表現が一面的だったが、『新宝島』では俯瞰から地上へのあらゆる角度から、車が走る状態を描くわけですよ。見ていると、まるで自分がその車に乗って、走っているような錯覚がする、すごい魅力があってね。 その漫画を手に入れるために、鉄くずやレンガを拾って、お金を一生懸命にためました。ついに、広島の焼け跡の中にある本屋からそれを買ってきました。もう何千回を読んだ。どこのページに、どういう台詞が入っているとか、全部分かるんです。それほど、頭に入り込んだのです。当時、画用紙を買うお金がなかったので、闇市に行って、映画のポスターを剥がし、その裏に一生懸命に模写していた。あの頃から、将来、ぼくは必ず漫画家になると決めていました。 ――初めて作品が発表された時の思い出は。 『おもしろブック』に入選した漫画が最初に発表された作品でした。原稿料を初めてもらった。千円だったかな。あの頃は大金だった。何か記念にと、水彩の絵の具とパレットを買って残しました。今も使っています。もう、45~46年ぐらい前のことです。絶えずそれを見て、これを買ったときの感動を忘れないようにしようと思ってね。 ■逃避から向き合うまで ――児童漫画家としてデビューした中沢さんは、いつ原爆をテーマに作品を作ろうと思いましたか。 デビュー当初、ぼくはSFや、宇宙もの、野球ものばかりを描いていて、原爆のことを描こうと思わなかった。 原爆という二文字に含まれる死体の腐る匂いから、あの状況が浮かぶんですよ。あの何とも言えない、いやな匂いから逃げたい。逃げて逃げて、思い出すのもいやだと思った。 それから、東京に出るとね、被爆していることを知ったら、傍に寄らないんですよ。原爆差別があるんですよ。放射能がうつるんだと思っているようです。もう驚いて、冗談じゃないよ。これが唯一の被爆国の実態なのか、とホントに腹が立ってね。いつかそういうものを書こうという気持ちにはなったが、まだまだ踏ん切りがつかなかった。 ――決め手は何でしたか。 1967年、原爆病院に7年入院していた母が60歳でなくなりました。ぼくたちは親父たちの骨を焼け跡から掘り出しました。人間が焼かれるとどういう形になるのか、分かっているのですよ。ところが、いざおふくろのお骨を拾うことになって探したら、骨がないんですよ。4センチぐらいの白い破片が点々と見えただけ。そんなばかな。原爆は人間の骨まで奪われるのか、ああ、もう腹が立ってね。 「ぼくの大事な、大事なおふくろの骨を返せ」と言いたくなってね。 それで、その小さな骨を中沢家の墓石に移しかえて、夜行に乗って東京に帰った。列車にガタン、ガタン揺られながら、つくづく思ったんです。 自分はいままで原爆から逃げていたが、もう逃げんぞ。もう徹底的に原爆と戦ってやろうという気になって、一週間で描きあげたのは「黒いシリーズ」の第一弾、「黒い雨にうたれて」です。
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