「私はあらゆる機会を利用して自分が参加した中国侵略戦争の経歴と犯した数々の罪の話をしたい。私の責任は戦争の恐ろしさと罪悪を語り、特に在学の学生たちに自分の経歴を話す事を通じて中国侵略の歴史を深く認識してもらい、再び歴史の悲劇を繰り返さないように働きかける事です。」89歳の坂倉清氏は千葉県の自宅で取材に来た新華社の記者にこのように語り、中国侵略戦争で犯した罪を語るとき後悔やむことなし、という感じだった。
坂倉清氏は1940年12月に応召、陸軍第10独立混成旅第45大隊第一中隊に配属され、まもなく乗船して中国の青島に到着、その後貨物列車で済南と泰安に行き日本軍国主義の引き起こした侵略戦争に参加する。1945年8月に朝鮮の興南でソ連の赤軍に捕まり、同年10月にはソ連のシベリアに送られる。1950年には撫順の戦犯管理所に収容された。
坂倉清氏は自らが中国で犯した犯罪行為に対して謝罪の意を示した。坂倉氏は一人の新兵として山東省泰安で半年間の軍事訓練を受け、その間毎週掃討に出かけ、焼く・殺す・奪うを徹底して行なった。ある日20人の新兵の刺突訓練で一人の古参兵が若い八路軍兵士を刺殺するのを見た。これが初めて人を刺し殺すのを見た経験だった。その時心に落ち着かないものを感じたが、その後作戦に参加する回数が増えるに従い自らも変わってきて特に感じなくなった。1941年6月のある日、彼の所属する部隊は15、6人を発見して八路軍であるとみなし、距離300メートルのところから銃を撃ったがそれが一人に命中した。直ちに武器を取り上げようとして近づいたところ、それは武器を全く持たない若い母親である事がわかり、傍らには一歳に満たない嬰児が母親の乳首を探し乳を求めていた。
坂倉氏は小さい頃から軍国主義教育を受けた。家は貧しかったので将来は軍人になり、国のために尽くす事にあこがれていた。坂倉氏は侵略戦争に参画して人を殺すのは自分の前途将来のためであり、国家の利益のためであるとずっと考えてきたため作戦中に「三光政策」を行ない、悪い事をやり尽した。
坂倉氏は次のように言う、「自分は中国の人民に対して許すべからざる罪を犯したが中国人民の戦犯に対する寛大な処置を得た。このことに対して感謝の念を懐いている。撫順戦犯管理所での6年間に、自分は侵略戦争について考え始め、自らの犯した罪について反省をし、『帝国主義論』等の書籍を学習して新たな人生を得た」と。
1954年4月には、元日本軍中隊長の宮崎弘が管理所で自らの罪について考え方を述べて、6人の無辜の中国人農民を殺害した事、部下に命じて無数の中国人を殺害した事を供述した。宮崎は跪いてお詫びの意を表し、中国政府に自分を死刑にするように要求した。
宮崎の話は多くの者の心を動かし、その後「担白(タンパイ)運動」が起き、自分の罪を自覚して告白する事になっていった。後に瀋陽の法廷はこれらの戦犯のうち、40数名の戦犯に対して比較的軽い刑を、その他の大多数に対しては起訴免除を言い渡した。起訴免除の宣告を受け、中国人民の寛大な処置に対して感激して皆が涙を流した。
坂倉氏と高柳美智子氏の共著による『あなたは「三光作戦」を知っていますか』は2007年に出版された。現在も坂倉氏は毎日書き続けており、自分のやった悪い事を全て記録に残して今後も出版し、これからの世代がこの時代の歴史を知り、悲劇の歴史を再度繰り返す事のないようにしたいと考えている。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年7月9日