中国人民抗日戦争において、信仰も肌の色も異なる国際友人たちが海と山を越え、戦火が飛び交う中国へと赴いた。世界反ファシズム戦争の東方主戦場で、彼らは中国人民と共に「正義が邪悪に、光が闇に、進歩が反動に勝利する」という壮麗な歴史を綴った。
グリシェンコ(ソ連)
ソ連航空大隊長
1939年10月14日、グリシェンコは援華(中国支援)航空義勇隊爆撃機大隊を率い旧日本軍の漢口飛行場を急襲し大打撃を与えた。帰途中に、敵の迎撃を受け左胸と肩に被弾。搭乗機の片側エンジンが被弾したが、戦機と地上住民を守るためパラシュート降下を断念し、四川省万県(現重慶市万州区)の長江への不時着水を選んだ。同乗の2人は岸に泳ぎ着いたが、負傷したグリシェンコは激流に呑まれ36歳で壮烈な戦死を遂げた。
中露両国民の血と命で築かれた深く厚い友情は、両国関係と世代を超えた友好の堅固な礎となっている。
フライング・タイガースとシェンノート
アメリカ義勇航空隊(AVG)・飛行教官
1941年、米国飛行教官クレア・リー・シェンノートは米国人操縦士および整備士を集め、中国支援のために義勇航空隊を結成した。「フライング・タイガー」のエンブレムを掲げ、中国南西部及びミャンマー上空で勇戦。日本軍航空戦力を効果的に撃破し、「雲南とインド北東部を結ぶ空路・駝峰航路」の安全を守り抜いた。
フライング・タイガースは中国軍民と肩を並べて戦い、累計で日本軍機2900機以上・軍艦44隻を撃破し、6万6千余人の日本兵を殲滅した。2千人以上の米国人隊員が最終的に東洋の地で犠牲となった。
ノーマン・べチューン
カナダ共産党員・著名な胸部外科専門医
1938年、カナダから中国抗日戦線へ赴いた。
「手術台を戦線最前部に設置する」との信念を実践し、前線で多くの中国軍負傷者を救護したのみならず、多数の医療要員を育成した。
1939年、八路軍負傷兵の救護中に不幸にも感染し、中国人解放事業に尊い命を捧げた。
毛沢東同志は彼を「己を利せず、もっぱら人を利する」と評価した。生涯で「医の境界なき精神」を体現し、その不朽の精神は今も中国人民の胸中に刻まれている。
クワルカナス・S・コトニス
インド人医師
1938年、若きコトニスはインド義勇医療団の一員として「傷病者の救護」という信念を抱き、決然と中国へ渡った。
硝煙と砲火の中、数多くの中国軍民を治療し、医療従事者を多数育成したが、過労が重なり32歳の若さで永眠した。
毛沢東同志は彼を「全軍は片腕を、民族は良友を失った。我々は彼のインターナショナリズム精神を永遠に忘れてはならない」と評価した。
ジャン・ジェローム・オーギュスタン・ビュシエール
フランス人医師
1913年に中国に来て40数年居住した。高い社会的地位と高収入の名医ながら、自転車による「駝峰航路」を命懸けで開拓し、貴重な医薬品を中国抗日根拠地へ運んだ。
封鎖線突破による薬品輸送、八路軍兵士救護、抗日支援の功績から「フランスのべチューン」と称えられている。幾十年を経ても、中国人民と肩を並べて戦い「渇した喉に水」を届けた絆は、今も人々の心に深く刻み込まれている。
ジョン・ラーベ
ドイツ人義士
1908年に中国を訪れた。1937年、旧日本軍が南京大虐殺を起こした時、シーメンス社員として在留外国人らと「南京安全区」を設置し20万人超の中国人を庇護した。滞在中に記した「ラーベ日記」は南京大虐殺の最も重要かつ最も詳細な史料の一つである。
1950年1月5日にハイデルベルクで逝去。1997年4月2日、墓碑がベルリンから南京へ移され、中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館に永久安置された。
ベルンハルト・アルプ・シンドバーグ
デンマーク人義士
1937年12月~1938年3月、26歳で南京江南セメント廠勤務。旧日本軍の虐殺が続く中、外国人特権を利用して廠内に避難民区画・診療所を設置し、約2万名の中国人難民を救護した。
当時の旧日本軍の戦争犯罪を写真と書簡で記録し、「南京大虐殺の真実」を国際社会に発信した。
マイケル・リンゼイ
英国人学者
1937年12月、べチューン医師と共に中国に来て燕京大学で教鞭を執った。太平洋戦争勃発後、晋察冀辺区を経て延安に赴き、八路軍無線技術顧問に就任。英文戦況報道の編集も直接指揮していた。
抗日根拠地の戦闘・生活・生産活動を克明に記録した写真群は、現存する最重要写真史料となった。1944年9月には新華社英語放送部創設の功臣として、ついに「延安の声」を世界へ発信した。
ジョージ・アルフレッド・ホグ
英国人作家
80年前の夏、30歳の若き英国人青年・ジョージ・アルフレッド・ホグは甘粛省山丹で息を引き取り、中国の抗日戦勝利の瞬間を見届けられなかった。
従軍記者として上海・武漢での旧日本軍暴虐を目の当たりにし、著書「一つの新しき中国を見る」に結実したルポで日本侵略の実態を告発した。「中国の夜明けを担う人材育成」を志し創設した学校は、今もその精神を継承する。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2025年9月2日
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