ハンス・ヒーバー
ドイツ人作家・共産党員
1941年秋、山東抗日根拠地が最悪の戦況下にあった時、沂蒙山區へ駆けつけ世界に向けて抗日の現状を発信した。
山東省南部特有の麻鞋を履き、八路軍の灰色詰め綿軍服に身を包み、日中は取材、夜間は執筆に加え奇襲作戦にも参加した。兵士からは「外国人八路軍」と親しまれた。1941年11月30日の掃討戦で壮絶な戦死を遂げる最後の瞬間まで銃を握り、ペンと銃弾でファシズムに対抗し続けた。
エドガー・スノー
米国人作家・記者
1928年訪中。二度にわたり陝甘寧辺区を訪問し中国共産党の革命を詳細に取材。
1937年、北平において「赤い中国」取材で得た見聞を纏め、『レッドスター・オーバー・チャイナ』(中国語題:西行漫記)を著した。この著作は世界を震撼させると同時に、戦雲に包まれた中国全土に瞬く間に伝播。刊行されて以来20言語近くに翻訳され、数十年を経た今も読み継がれる報道文学の金字塔として屹立している。
1972年2月15日逝去。遺骨の一部は北京大学未名湖のほとりに埋葬されている。
馬海徳(ジョージ・ハテム)
米国人医師(のち中国国籍取得)
1936年、スノーに同行し陝北へ赴いた。紅軍兵士の純粋な信念に感銘を受け、辺区で医療活動に従事する決意を固めた。中国名「馬海徳」を名乗り中国共産党に入党した。
新中国成立後は中国国籍を取得し、医療行政整備に畢生の尽力を注いた。自らの足で大地を測り、医術の温もりで民心を癒し、国境を越える献身の物語を生涯をかけて綴ったのである。
ルイ・アリー
ニュージーランド人義士
1927年に中国の地を踏み、上海で消防隊長及び工場監督官を歴任していた。10年後に全面抗戦が勃発するや、中国人民の被った苦難を目の当たりにし、産業興国による中国救済の着想が芽生えたのである。
中国において工業合作社運動を提唱・推進し、経済戦線で中国人民の独立、生存と発展を追求する支援を展開しており、更に培黎学校を創設し、中国の工業技術人材育成に尽力した。
1987年に北京で逝去するまでの60年にわたり、中国人民の解放と建設事業に生涯を捧げた。
イスラエル・エプスタイン
ポーランド人、インターナショナリスト・記者
ワルシャワのユダヤ系家庭に生まれた。2歳で訪中。1937年の盧溝橋事件を機に従軍記者となった。一貫して中国人民と共に行動し、旧日本軍の戦争犯罪を国際社会に告発してきた。1957年に中国国籍取得、1964年に中国共産党に入党した。
『人民の戦争』『未完の中国革命』などの著作を遺し、中国の対外情報発信事業に多大な貢献を果たしてきた。
ハンス・ミュラー
ドイツ人医師
裕福なユダヤ系家庭に生まれた。1939年、24歳の彼は香港を経由して重慶から延安へと向かう途上、国外から支援される抗日医薬品の護送に携わった。
中国抗日戦争への参加後、延安国際平和病院の戦場外科医として急成長した。しかし彼はこのポジションに満足せず、自ら最前線勤務を志願し、中国民衆によるファシズム侵略者への抵抗戦に支援したのである。
1989年、中国衛生部より「傑出した国際主義白衣戦士」の称号を授与される栄誉に浴した。
今年は中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利80周年にあたる。抗日戦争において貴重な支援を提供してくれた各国の人々と国際組織に対し、中国人民は永遠に感謝の念を抱き続けている。彼らの人道的な行動と高潔な精神は、中国人民の心に不朽の光として刻まれている。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2025年9月3日
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