1922年頃、クリミアで生まれたユダヤ人青年のシオマ・リフシッツさんは、十月革命後のソ連を離れるために家族とともに上海に渡った。中国語をマスターし、シオマさんは瀋石蒂という中国名をつけた。
最初、彼は上海で雑用の仕事をし、生活の基盤が固まってから撮影の仕事についた。イスラエルが建国した1948年、多くのユダヤ人が上海を離れたが、瀋石蒂氏は上海で写真館の経営を続けた。彼は上海に最後まで残った100人のユダヤ人の1人だった。
彼の最初の客は上海にいる外国人だったが、その後に口コミが広がり、中国の富豪、名士、映画スターが訪れるようになり、写真館は繁盛していった。最盛期、彼は上海に4軒の写真館、11カ所のスタジオを持ち、31人の従業員を雇っていた。1957年、彼は35年間生活した上海を離れることを決め、1987年に死去した。
ストッキング、パーマ、ハイヒール、メイク、古典的なチャイナドレスを合わせ、瀋石蒂氏はシャッターを切り、完璧な作品を残した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2017年11月27日