簡さんは、重慶での旧日本軍による無差別爆撃で、彼女の一家がバラバラになり、肉親を失っただけではなく、彼女に一生の傷と苦しみが残ったと訴えた。彼女は今でも、日本軍の爆撃から逃れるために防空壕に駆け込む夢や、病院で傷の手当てを受ける夢を見て、夜中に飛び起きることがあるという。彼女は、「私が東京を訪れたのは、旧日本軍の爆撃が中国人被害者に与えた苦痛が今も続いていることを公然にし、日本政府に分かってもらうためです。70年後の今でも、重慶大爆撃によってもたらされた被害者の苦悩は続いています。私は、日本政府がすみやかに被害者に陳謝し、償ってほしいと心から願っています」と話した。
「重慶大爆撃」は、1938年2月から1943年8月まで続いた。この5年半に、中国を侵略した旧日本軍は、当時の臨時首都となった重慶に大規模な無差別爆撃を行い、抗日戦争に対する中国軍の意気をくじこうと企てた。大まかな統計によると、旧日本軍は重慶および周辺の成都、楽山、自貢など各地に200回以上に及ぶ爆撃を繰り返し、軍用機を9千回以上出動させ、1万1500個の爆弾を投下した。死者は重慶だけでも1万人以上、1万7600棟の家屋が破壊された。
重慶大爆撃の被害者団は2006年3月、東京地方裁判所に訴訟を起こし、損害賠償事件の序幕が開いた。これまでに20回に及ぶ公判が東京地方裁判所で行われ、第21回公判は来年3月21日に開かれる予定。
「人民網日本語版」2011年12月27日