偉大なる共産主義の戦士、雷峰
殉職前の雷峰は、多くの辛酸を舐めてきたことで知られる。苦労を厭うこともなく、負担の重い仕事に従事し、人知れずに被災地の人々に募金をし、数々の善行を行ってきた。部隊の戦友たちはもちろん、数多くの庶民たちもこの解放軍戦士を称賛した。多くの職場で彼の経験や苦労話を講演してもらいたがった。そして聴衆は彼の話に涙し、同情し、喜んだ。いくつかの学校が彼を学外指導員として招聘し、多くの少年先鋒隊の心に雷峰の名声と人物像が刻まれた。
1962年8月15日、雷峰が殉職すると、軍内軍外を問わず全国各地で雷峰に対する「宣伝活動」が大きく広がっていった。1963年1月7日、中国国防部は雷峰が生前所属していた部隊「輸送部隊第四班」を「雷峰班」に変えることを決定した。命名大会が開催され、新華社や『人民日報』、『解放軍報』、『中国青年報』など全国主要メディアが揃って雷峰の平凡で偉大な業績を書きたてた。全国、全軍からの空前の反響により、雷峰の名前はすべての国民に広まった。それからすぐに、いくつかの雑誌や新聞が雷峰の業績をルポルタージュ化し、また雷峰の日記を掲載し、評論を載せた。作家や詩人たちも文章や詩によって雷峰精神を熱く讃えた。要するに自主的な「雷峰に学べ」運動が、全国各地で様々な形で行われたのだった。
中央機関誌である『中国青年』でも、他雑誌の先を行く全国雷峰宣伝活動を考えるため、全社員が頭をひねっていた。一貫して沈黙を守っていた思想修養組組長の王江雲が、「毛主席に題辞を頼めないだろうか?」と言った。
毛沢東が『中国青年』からの手紙を読む前、すでに『人民日報』に掲載された雷峰の業績と日記の抄録を読んでいた。毛沢東は考えていた。大躍進の後、三年の自然災害があり、数千万人もの人間が命を落とした。党と政府の威信はガタ落ちである。党と大衆の関係はますます疎遠になっている。国際的にも中国はソ連と不仲になっている…。毛沢東は、このような中国国内外の現状と、未来について考え続けていた。そのとき、毛沢東に妙案が浮かんだ。青少年に対し、固い信念と遠大な共産主義の理想を教育するために、雷峰は絶好の教材であり、モデルになるのではないかと。そして毛沢東は雷峰の題辞を書くことにしたのである。
1963年3月2日の『中国青年』では、史上初となる、毛沢東による題辞「雷峰同志に学べ」が発表された。三日後の3月5日、『人民日報』、『解放軍報』などがトップで毛沢東の筆跡を掲載した。後に、毎年3月5日が「雷峰に学べ記念日」となった。
1963年3月6日、つまり北京の各大新聞が毛沢東の題辞を掲載した翌日、『解放軍報』が、北京に住む国家指導者の題辞を独占的に掲載した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年2月23日