日本新華僑報サイト2月29日付の記事によると、姫路城は日本で最も保存状態が良い城のひとつであるという。特徴的なのは城まで続く、くねくねとした石の小道である。注意しなければ、観光客はたちまち迷ってしまう危険性があるほどだ。姫路城は兵庫県西の交通要所に位置しており、日本現存の城の中でも最も大きく、最も美しい城である。
城の中の石畳を歩いているだけでは、城壁に無数の様々な形をした鉄砲や矢を仕掛ける穴があることにはなかなか気付かないだろう。これらは城を守るために故意に造られたものだという。そうは言うものの、城の防衛面から見ると、これらの穴はあまりにも豪華ではないだろうか。歴史資料によると、姫路城は16世紀から18世紀にかけて建造され、今日までに幾度にもわたって修復を行われているが、姫路城で戦いが繰り広げられた記録はないという。
姫路城には多くの低くて狭い「菱の門」があり、石畳も複雑に折れ曲がっており、注意して歩かなければ迷ってしまう。城がすぐ目の前に近づいていると感じていても、入ろうとするのは困難極まりないのだ。防衛機能が高い城は、壁に空いた穴から鉄砲を突き出し、矢を射る事ができるだけでなく、城の門の上にも「石落とし」という溝が設けられており、石垣を登って進入しようとする敵に石を投げて攻撃する事ができる。姫路城は壮麗で美しいが、いろいろなところに敵を殺す仕掛けを隠し持っている。城に住む人々は日々、衣食に贅を尽くした贅沢三昧の生活を送っていたが、自分の身の危険も常に感じていた事が伺える。
「当時の武士は万能で、建築士や芸術家の仕事ができる者もいた」というが、確かにその通りである。矢を射る穴にも「狭間(さま)」という優雅な名前がついていたほどだ。そして、城の曲がりくねった石畳も、防衛面だけでなく、見た目の美しさを考えたからに違いない。
標高45.6メートルの姫山にそびえる姫路城は、高さ32メートルの天守閣を持ち、全て木造である。道案内をしてくれた人によると、城の建造には387トンの木材と7.5万枚の瓦と膨大な量の石が使用されたという。
城は大小天守などが8棟、渡櫓、門、塀等が74棟ある。正門の上の直線的な組み合わせ「千鳥破風」と呼ばれる屋根のつくりになっており、天守閣側面の曲線的な組み合わせは「唐破風」と呼ばれている。「破風」とは、伝統的な建築様式であり、屋根の装飾版のことを言う。屋根の装飾は、動物の形をしたものや巨大で豪勢な魚の形をしたものなどがあり、城を火災から守る魔よけだという。全てが木造の建築にとってはきわめて重要なことだ。このような建築の様式には、中国の唐の時代の特色が伺える。くねくねと湾曲した城内の石畳は、迷路のようになっており、最上部まで登れば、城全体を一望する事ができ、日本映画のワンシーンを想起させる。ひとりの武士が勇猛果敢な白馬にまたがり、城に向かってまっすぐ駆けて来る。馬蹄が石畳を打つ音が鳴り響き、承平すれすれを前進していく様子がありありと浮かぶ。
姫路城には13組の家族が530年間住んでいた歴史がある。今の姫路城は再建されたものではなく、当時のものがそのまま残っている「本物の城」であり、非常に珍しいことだという。世界遺産委員会が「この城によって、より多くの人々が日本文化を理解することができた」と評価するのも納得できる。空から見ると、城の周りは緑に囲まれ、城の角がまるで地下に埋め込まれたように見え、石畳は突然折られたように見える。城全体が翼を広げて飛び立とうとする白鷺のようで、「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれ、比類のない趣が感じられる。姫路城は「天守」とも呼ばれるが、日本の武士は自分の権力を守るためには「天に祈る」に越した事はないと考えていたからではないだろうか。日本文化の中では「天」は「地」よりも偉大なものとして捉えられていたのだろう。
姫路城は兵庫県に位置し、北は日本海、南は瀬戸内海と太平洋に面しており、戦略的にも重要な意味を持っていた。1333年、姫路一体には既に軍が駐屯しており、城の建造が始まったのは1346年である。1580年戦国時代末期、豊臣秀吉が城の母胎を築き、1681年には徳川幕府第1代将軍の徳川家康の娘婿である池田輝政が城主として改修を行い、今日の巨大な規模になったのである。