2011年3月11日の東日本大震災で、日本の東北三県の岩手、宮城、福島は最も深刻な被害を受けた。中でも津波の被害が最も深刻だったのは宮城県で、60%の遭難者・行方不明者が宮城県で発生している。倒壊した家屋の60%も宮城県で、宮城県の直接的な経済損失は約7000億元になる。宮城県仙台市若林区は海に近い地域で、深刻な被害を受けた被災地の中でも更に重篤な地域となった。2011年の地震直後と夏に2回取材に訪れた。数カ月が経ち、情況にどんな変化があるか?震災がもたらした傷がどれくらい残っているか?こうした疑問を持って3回目となる若林区に赴いた。
これまでの2回とくらべ、今回はもっとたくさんの発見があった。前回は海岸線から300メートル範囲はすべて立ち入り禁止区域になっており、がれきとゴミばかりで自然の障壁のように海岸と内陸を分けていたので、人々は通行が難しく、様々な工事車両が狭い道路をひっきりなしに行き来していた。だが今回は、山のような巨大ながれきやゴミは依然としてどこでも見かけるものの、一部分の臨海地域はすでに整理され、人々が気楽に海岸に行けるようになっている。昔の荒浜海水浴場にも車で海岸線50メートルしか離れていない所までいける。荒浜地区では海岸線500メートルの範囲には、いくつの建物は残っているほかは大部分のがれきはすでに処分され、地面に残るコンクリート基礎だけが人々にここに以前、賑やかな楽しい家庭があったことを伝えている。
靴やバックなどの小さなゴミが一部分のところに散らばっている以外は、どこにでもあった大きながれきやゴミは基本的になくなった。これまでと違い、現場ではここに取材に来ている日本国内や外国メディアの記者の外に、地元の人はほとんど見かけなかった。現地のタクシー運転手によると、この海岸地域は今年初めに処理が終ってから、地元以外の人や記者が見に来る以外、地元の人はここにはあまりに多くの痛みと思い出があるので、ほとんど行きたくないのだという。
2011年、ここに取材に来たときには、海から300メートルのところに建っているある小学校一帯は、津波の被害が最も深刻な地域だった。回りの多くの建物が津波の衝撃によりなくなったが、しかしこの学校の教室棟の主構造だけは被害を受けなかった。今、現地の再建作業に従い、多くの建物が取り越されているが、この小学校は完全に保管されて、津波記念館として多くの人が見学に訪れている。巨大な災難に直面しながら、この学校の建築品質は試練に耐えた姿は施工した人々のの良心と責任感を表しているようだ。
案内してくれた貴田さんは以前は海まで100メートルとない荒浜海水浴場の近くに住んでいた。貴田さんは今年67歳だが、黒髪で若く見える。現在、貴田さんは仙台市が被災者のために建てた仮設住宅で生活している。仙台市は荒浜海水浴場一帯を危険区域に指定して市民の居住を禁止した。しかもこの地域を公園に変えようとしている。貴田さんはこれを不満に思っているという。再建問題では、現地住民は基本的に2つの意見に分かれている。一部住民はこの地域は海と近すぎることから、今後も津波被害の恐れがあり、引き続き居住するのは危険なので引っ越したいと主張し、政府からの援助を望んでいる。これらの人の考え方は仙台市と一致する。もう一方で例えば貴田さんのように、転居を拒絶し、この土地に家を再建することを望む人もいる。彼らは政府に早急に電気、ガスなどのインフラを回復し、援助を希望している。今の情況からみると、それぞれ異なる意見であるが、総じて政府の再建の進め方に不満だという。仙台市は10年かけて再建目標を達成するといっているが、住民にとってこの期間は長すぎて、しかも予算も不足しており、資金不足だと考えている。今後はどう進むのか?全員に一致しているのは、未来に対する不安な気持ちだ。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年3月9日