北京の故宮、江蘇省の周荘、山西省の平遥古城、陝西省の華山、成都の西嶺雪山、江西省の廬山など定番観光スポットでは連日、のきなみ定員数を超える人出となった。なかでも、10月5日の敦煌石窟に訪れた観光客は、適正定員数の6倍、南京の中山陵に至っては10倍に上った。
9月30日から10月7日まで、8日間にわたるゴールデンウィーク。この期間、中国国民の半分にあたる、のべ7.4億人が旅先、あるいは旅の途上にあった。「中国の半分」が旅に出たという事実に、中秋節や国慶節の存在意義に対する疑問が生じせざるを得ない。中秋節は一家団欒で月餅を食べながら名月を鑑賞する日のはずだった。国慶節は愛国心を表現する日のはずだった。しかしこの二つの祭日に、旅行したり、あるいは友達と食事したりなどが優先され続けるならば、祭日の本来の目的は失われる。物質的な飽食に明け暮れれば、精神的な豊かさが失われ、ついには祭日が衰退しかねない。
半分の中国人が旅行に出かけたという事実に対し、交通管理当局を責めるだけでは足りない。祭日を「救済する」見地から見た場合、祭日に関連する文化方面の当局も非を認めるべきだ。どうしてこれほど多くの人が、交通渋滞などの旅行先の苦痛を受け入れてまで外出しようとしたのか。もし祭日の気分が濃厚に醸成され、中秋節や国慶節の文化的奥深さといった良き伝統が存続し、盛大に盛り上がれば、人々の祭日は充実したものになったはずだ。新しい文化と伝統文化が有機的に融合すればなおさら良い。そうなれば、休み明けに心の病気になってしまう余地もないはずだ。簡潔に言えば、祭日の伝統を無視した不安定な感覚こそが、人々を旅行に出かけさせる根本的な原因なのである。
中秋節に流れるものは、お互いに贈答しあうという血液であり、国慶節に流れるものは、すさまじいまでの観光意欲という血液である。外的な物理現象が祭日の本質に取って代わってしまった。無形文化遺産を保護するように、祭日を保護するべきだ。我々は理性を必要としており、祭日の持つ文化的な知恵を必要としている。祭日を救い、「中国の半分」が旅先にあるという情けない現状を打開すべきである。我々は本当に自省が必要であり、手本が必要であり、革新が必要である。そして伝統への回帰が必要である。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年10月14日