政治・安全>>新中国成立60周年>>
「文字を教える」から人材資源大国へ
発信時間: 2009-08-21 | チャイナネット

全国に普及した基礎教育

新中国の成立後、すべてを復興しなければならないため、どの分野でも人材の育成が急務となった。そこで政府は短期の幹部学校や技術学校を開設し、速成の人材養成をはかる以外に、小学校や初級中学校(日本の中学に当たる)を開設し、基礎教育を着実に発展させた。

とくに1952年に土地改革が全国的に完了した後、農民たちは自分の土地を分配されたので生活が好転した。そこで農民たちは、子どもが自分のように読み書きのできない人間にならないよう、学校に入学させた。私の故郷の蕉嶺中学(日本の中学と高校に当たる)では、かつては初級中学部は3、4クラスしかなかったが、1952年には10クラスに増えた。

1953年、私は古い寺院を改築した藍坊小学校を卒業し、僑興中学に合格した。この学校は、蕉嶺県の高思郷出身のインドネシア華僑の寄付で1950年に開設された。完全にはでき上がっていなかったが、二年目から生徒を募集し、開校した。

江蘇省淮陰師範学院の今年度の本科卒業生たちは、学士服で卒業式に臨んだ

2008年3月から、遼寧省遼陽県黄金屯村の小学生たちは、国から無料で提供された教科書を使い始めた。遼寧省は2006年から、農村の義務教育段階の子どもたちの雑費をすべて免除している

当時は、生徒の入学年齢の制限は緩やかで、同級生の中には、11、2歳の少年もいれば、すでに結婚し子どもまでいる人もいた。しかしみな、国づくりの目標を抱いて入学し、勉強に励んだ。

創られたばかりの僑興中学は、施設設備が貧弱だった。学校は静かな環境を求めて喧騒のない、村はずれの昔の無縁墓地の上にぽつんと建てられていた。しかし、山育ちの子どもたちは、苦労には慣れている。学校に入れさえすれば、条件の良し悪しはどうでもよかった。

生徒たちは先生の指導で、放課後を利用し、学校建設の労働に参加した。水道がなかったので、竹の樋で山の泉の水を引いた。運動場がなかったので、山の斜面を削ってバスケットとバレーのコートを造った。先生と生徒たちはさらに食堂や厨房、浴室まで造った。こうした労働は、意志の強さを鍛えるだけでなく、団体精神を育成し、母校の栄誉のために一生懸命勉強しようとみな奮い立った。果たせるかな第1回から第5回までの卒業生の進学試験の結果はどれも、全県の中学の中で一位だった。

新中国になって政府は、少数民族地区の教育にも関心を払った。内蒙古自治区アオルグヤ郷は、1965年に政府が出資して、大興安嶺の森林区で狩猟生活を送っているエベンキ族のために建設した新村である。戸数は100戸、住民は474人に過ぎないが、この郷には民族学校があり、114人の生徒が九つのクラスに分かれて学んでいる。このうちエベンキ族の生徒は45人である。

学費が免除されているほか、毎月、奨学金も出る。23人の教師たちの熱心な指導の下、生徒の成績は優秀で、この郷から毎年、大学や中等専門学校への合格者が出る。

中国は一貫して基礎教育を重視してきた。1986年から中国は、小学校と初級中学段階での9年制の義務教育を実施し始め、立法の面や教員資格を持つ人の養成、教育の視察・監督などの面から義務教育を推進した。

2007年までに、全中国で小学校は32万百校、在校生1億564万人、初級中学は5万9400校、在校生5736万1900人、高級中学は1万5681校、在校生2522万4000人となった。旧中国で教育が最高に発展した年である1946年でさえ、全国に中学4266校しかなかったので、比較にならないくらい発展したのである。

<  1  2  3  4  5  6  >  


 
  関連記事