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「文字を教える」から人材資源大国へ
発信時間: 2009-08-21 | チャイナネット

2009年2月、河南省新蔡県宋崗郷の「留守児童」、つまり親が出稼ぎに出て農村に残っている子どもたちは、「留守児童」託児センターから新学期の課外読本をもらった

中国語の「義務」には「無料」という意味もあるが、義務教育と言っても、その当時はまだ教育費の無料化は実行されていなかった。子どもたちは相変わらず学費や雑費を納めなければならなかったし、都市に出稼ぎに来た農民工の子女は、都市の学校で学ぶのに、学費や雑費のほかに年に一回、高額な「借読費」という特別費用を払わなければならなかった。こうした義務教育の状況について「空中高くつるされた水密桃、誰も手が届かない」と皮肉る人もいた。

確かに、二億人もの子どもの学費や雑費の総額はかなりの額になる。しかし、人材の養成や教育立国の大計、教育の機会均等、社会的公正を考慮して、政府は2006年から、まず中西部地区の農村で、小学校と初級中学の学費と雑費を免除し、その後、それを次第に東部地区と都市部にも拡大した。そして2008年の秋までに、全国の農村部の1億5000万人の小学生と初級中学生の学費と雑費、教科書無料がついに実現し、さらに1100万人以上の児童生徒が寄宿舎での生活費補助を受けられるようになった。同時に、都市部の2821万の小学生、初級中学生の学費と雑費が免除された。これによって全国民の義務教育が、真の意味で実現したのである。

再開された大学入試

欧米と比べると、中国の高等教育は始まるのが非常に遅かった。1949年まで中国には、大学が全部で205校しかなく、学生は約12万人だった。

毎年、高校受験のころは、都市の試験場の外は、子どもを心配して待つ親でいっぱいになる(写真・馮進)

新中国が成立した後、高等教育の発展に大きな力を入れると同時に、国の需要に基づいて、総合大学と単科大学の学部と専攻を再編成した。1965年までに全国の大学は434校、学生は68万人になった。

しかし、1966年から76年までの「文化大革命」の中で、学校教育の秩序が混乱し、全国大学の統一入学試験は中断された。これは大学で学びたいという多くの若者たちの夢を打ち砕いただけではなく、国にも深刻な人材の不足をもたらした。

1977年8月4日から八日まで、仕事に復帰したばかりの中国の指導者、鄧小平氏は、「科学と教育工作座談会」を主宰した。その席上、鄧小平氏は大学入試の再開を提案し、人材育成を急ぐ必要から今年からそれを実行すると、その場で決断した。そのニュースが伝わると、各地の青年たちや親たちはお互いに知らせあい、多くの青年たちは人生の希望と勉強の意欲を燃やした。彼らは図書館に通い、書店を巡って本を買ったので、たちまち「洛陽の紙価を高める」(書籍が売れて急に紙の値段が高くなる)という現象が起こった。

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