80歳を越えた元女性機関士の田桂英さんは、若い頃のことを思い出すと、今でも気持ちが高ぶる。
遼寧省大連の漁師の家に生まれた田さんは、小さい時から父親と一緒に網を打って魚を捕っていた。生活は貧しかったが、様々な苦しみは田さんをねばり強い性格に鍛え上げた。
12歳で小学校に入学。しかし3年後には中途退学して印刷工場の見習い生に。その2年後には人の紹介で大連機関区の食堂で働くようになった。
当時17歳だった田さんは、その時の生活にとても満足していたという。「その頃はとても単純でした。少しでも多くお金を稼いで両親を養い、残ったお金で糸を買い、嫁入り道具として枕の刺繍をし、年頃になればいい人に嫁げばいいと思っていました」
しかしそんな田さんの考え方は、機関区の夜間学校に入ってから少しずつ変わっていく。男性と同じように国家建設に貢献しようと決心した田さんは、機関区長に技術を学びたいと願い出た。それからすぐに田さんのもとには、大連で中国初の女性機関士を養成するという、とても元気づけられる知らせが舞い込んで来る。
粘り強く学んだ成果
19歳の田さんは家族が反対する中で、女性機関士の養成を受ける申し込みをした。そして厳格な選抜を経て、持ち場につく前のトレーニングを受けることになった。
当時の機関車は蒸気機関車で、一番大切で難しいのが石炭をくべることだった。15分間でスコップ280杯の石炭をくべる。何時間も作業を続けると足腰が痛くなったが、田さんは歯をくいしばってがんばった。
その次は機関車の構造、技術管理、ブレーキの構造理論などの学習だった。だが小学校を3年出ただけの田さんには難しい。それでも田さんや一緒に学んでいた女性たちは粘り強く学び、様々な関連知識を理解して、各種信号やポイントの切り替え原理も分かるようになった。
1950年3月8日に大連駅前の広場で盛大に行われた「三八女子包乗組」の出発式では、田さんたち3人の女性に機関士の免許書が送られた。そして田さんが運転する列車「三八号」が旅順へ向かって出発した。
無事故だった「三八号」
「初めて自分が汽車を操縦した時はとても興奮しました。私の記憶では、お客さんたちも中国初の女性機関士が運転する汽車に乗ったことから、非常に興奮しているようでした」と、田さんはとても幸せそうな表情で当時の様子を振り返る。
その日から田さんたち女性の機関士は、鉄道の明るく美しい「風景」になった。彼女たちは石炭の灰が入ってくるのを防ぐために、首にはタオルを巻いていたが、一度の行程で顔は真っ黒になる。しかし労働条件がきついとは決して言わず、常に警戒心を高めて走行中の危険を防止していた。
田さんが機関士長だった3年間、「三八号」の全走行距離は20万キロ。そして事故は一度も起きなかった。
鉄道関係者としての誇り
田さんたちの行動はその時代、数多くの女性や若者に影響を与え、新中国第一世代の女性の就職ルートを開拓し、中国女子運動史上の新しい1ページを開いた。
新中国成立50周年だった10年前、田さんは遼寧省の模範労働者代表団と一緒に3回目の国慶節の行事に参加し、国家指導者の接見も受けている。
定年してから時間がたっても、かつて自分が鉄道関係者だったことを田さんは誇りに感じている。そして「今の高速鉄道は私たちの時代では想像もつかなかった」と、今の鉄道建設が手にした業績に心からうれしく思っていると話す。
「チャイナネット」2009年9月18日