――中国のチベット学研究センター研究員の廉湘民氏を訪ねて
記者 ダライラマが吹聴している「中間の道」の主要な内容の1つは、青海・チベット高原全体を含む「大チベット地区」を作ろうと企むものであるが、このような「大チベット地区」の歴史は存在したことがあるのかどうか?
廉湘民氏 歴史上、いわゆる「大チベット地区」は存在したことがない。今日、チベット族が集中して暮らしている地域でそれぞれ設置されている自治地方に含まれる自治区1、自治州10、自治県2という行政区画制度は長い歴史発展の過程の中で形成されたものである。唐代(西暦618-907)において、トバン(吐蕃)王朝はトバン部族が青海・チベット高原地帯及びその周辺地域に暮らしていた各民族、部落と連合して共同でうち立てた多民族の政権であった。トバン王朝の滅亡後、青海・チベット高原地域に暮らしていたトバンの人たちはその他の各民族と一緒に暮らすことになり、別に統一した政権は存在しなかった。元王朝の時期(1206-1368)に、チベット地方は正式に中央政府行政の管轄下に組み入れられ、元王朝はチベット地方でウスザンナリスグルソン(烏思蔵納里速古魯孫)三路都元帥府を設置し、つまりウスザン宣慰司がチベット地方を管轄し、その他のチベット地区でそれぞれトバン等路宣慰使司都元帥府とトバン等処宣慰使司都元帥府を設置し、それぞれドガンス(朶甘思)とスマ(思麻)地区を管轄した。この三つは並列して、統一的に中央管理機構の宣政院(最初は総制院)に属した 。明王朝の時期(1368-1644)に、チベットにはウス蔵衛指揮使司とオリス(俄力思)軍民元帥府(のちに烏思蔵都指揮使司に昇格)を設置し、ドガンス地区でドガン指揮使司(のちにドガン都指揮使司に昇格)を設置した。清の雍正4年(1726年)、清王朝の朝廷はチベット地方における政治的混乱に対応して、チベットと周辺の四川、雲南、青海などの省・地区の行政区画を調整し、バタン(巴塘)などを四川省に組み入れ、ツォンディェン(中甸)に近く、もとはバタンの管轄下にあったベンドラ(奔朶拉)〔ベンズラン(奔子欄)〕、チゾン(祁宗)、ラプ(喇普)、ウィシ(維西)、アドゥンズ(阿墩子)などを雲南省の管轄下に組み入れ、アドゥンズとリタン(里塘)、ダジェンル(打箭炉)〔今の四川省のカンティン(康定)〕に互いに牽制させ、カンティン(康定)・チベットの情勢をコントロールした。この調整によって清王朝のチベットとその他チベット地区を管轄する行政区画の基本的な枠組みが形成された。民国の時期(1912-1949)に、国難が深刻な様相を呈し、中国の国内で軍閥の混戦がやまなかったにもかかわらず、基本的に歴史上の行政区画を踏襲され、終始「大チベット地区」という行政区画は現れなかった。
いわゆる「大チベット地区」は、近代に入ってから帝国主義の中国侵略という条件のもとで現れた概念である。1913年に、イギリス政府は中華民国大統領の権力をかすめ取った袁世凱が各国の外交的承認と国際借款を得ることを切に願う気持ちを利用して、民国政府にイギリスの打ち出した中国、イギリス、チベットの三方がシムラーで開催した会議、つまり「シムラー会議」に出席するよう迫った。会議は「チベット独立」を求める6カ条を打ち出し、その中の第二条は「チベットの範囲はクンルン山と安定塔以南の新疆地域の一部、青海省の全域、甘粛省と四川省の西部、ダギャンルと雲南省北西部のアドゥンズを含む」というものであり、つまりいわゆる「大チベット」であり、それは中国の中央政府代表に拒否された。のちに、ダライラマをはじめとするチベット地方政府はかつて四川省と青海省の地方の軍閥と管轄区を争い合う中で武力衝突が発生したことがある。いわゆる「大チベット地区」と 「内チベット」、「外チベット」の画定は、たとえ内陸部の軍閥混戦の年代においても、たとえ軟弱な北洋政府でも従来からそれを受け入れたことはない。イギリスはこの主張を打ち出したが、従来から実施に付したことはない。そのため、いわゆる「大チベット地区」は中国をバラバラにする幻想に過ぎない。
記者 歴史上、従来から存在せず、現実にも可能性がないのに、ダライラマグループはなぜ繰り返し「大チベット地区」をつくることを吹聴しているのか?
廉湘民氏 彼らのねらいは主に次の3点である。1、亡命しているチベット人を丸め込み、内部をつなぎとめることである。亡命しているチベット人の中には、異なる地域から来た利益の異なる教派、階層が存在し、彼らの間にも食い違いや紛争がある。「大チベット地区」という旗をかかげたのは、カンティン(康定)地区とアムド(安多)地区から来たさまざまな勢力を丸め込む目的を達成するためである。2、国際世論のサポートを勝ち取ることである。世界の多くの人たちは青海・チベット高原にさらに漢族、蒙古族、回族およびその他の少数民族が代々居住してきたことを知っておらず、ダライラマグループは「大チベット地区」という概念で世論をあざむき、それを誤った方向へ誘導し、その分裂活動のためにムードを作り出すためである。3、「大チベット地区」を作ることもダライラマグループの前進のためにまず後退する戦術である。表面上は「独立」に触れず、「大チベット地区」しか語らず、実際は分裂活動の基地を国外から国内に移そうと企んでいるのである。事実、「大チベット地区」も彼らの「最低ライン」ではなく、彼らの交渉の中での高い「掛け値」である。1959年以前、ダライラマをはじめとするもとチベット地方政府もチベット以外の地区まで管理したことはない。これはダライラマグループも非常にはっきりしており、「独立」は実現できないものであり、「大チベット地区」も実現できないものである。彼は国際世論をあざむき、亡命グループをつなぎとめ、それによって駆け引きを行う看板と点数かせぎに過ぎず、その農奴主グループとしての特権を回復し、チベットに対する政教統治の権力を回復することこそがその根本的な利益とするところである。
「チャイナネット」2008年4月24日