●初めての冬が数多くの日本人捕虜の命を奪い去った
住むところはなく、日本の戦争捕虜は掘っ建て小屋やテント、住まいに適さぬ簡易な部屋で冬を過ごした。1946年1月の非常に寒冷な時期に至ってすら、捕虜の住まいの状況はやはり変わっていなかった。
当時の日本軍捕虜で、後にソ連労働改造所に送還され帰国した清水芳夫氏はしばらく経ってから、同時の住まいの状況を思い起こした。「わたしたちは有蓋貨車に積み込まれ、シベリアから出発して、最後に、モスクワから南東400キロのタンボフ付近のラダにある118戦争捕虜収容所に送り込まれました。昭和21年の1月になっていました。そこでわたしたちが住んだのは、半地下式の掘っ立て小屋で、その年の8月までずっと住んでいました」
日本の戦争捕虜たちは掘っ立て小屋や臨時に組み立てた簡易な部屋で冬を過ごすのを余儀なくされたが、このような住まいでは明らかに厳寒の襲来を防ぐことはできない。ソ連労働改造所当局は捕虜に綿入れの上着を支給した。翌年の春まで着用したが、冬は暴風雪が多いため、綿入れは湿りやすく、また予備の防寒服もなかったために毎晩、乾燥室で干さなければならなかった。
木材伐採の労働に従事していた捕虜の日々はやや良かった。仕事を終えると、太い白樺の薪を担いで持ち帰っては、炉にくべて暖を取ることができたからだ。建築現場では一般に熱いご飯は食べられず、お湯も飲めない。疲れで眠って凍死するのを防ぐため、捕虜たちは互いに常に声をかけ合った。ソ連の土地を踏んだばかりで、ソ連の厳寒の気候にもまだ慣れておらず、数多くの捕虜が初めての寒さ厳しい冬に命を落とした。
では、初めての冬で一体、どれほどの捕虜が亡くなったのだろうか。政府の統計データによると、合計5万5000人が亡くなっている。
加川治良氏は退職前、会社員だった。当時、シベリアの戦争捕虜収容所に抑留され、何年か後に当時の状況を回想している。「収容所には、1500近い人が抑留されていました。冬が過ぎると、500人余りが病気や飢えと寒さで亡くなっていました。だから、およそシベリアで過ごした人は、だれもが『地獄』という言葉でこの収容所を形容したものです……亡くなった人の数は非常に多く、所長を担当したソ連の軍官も責任を追及され、労働改造所に送り込まれたからです。彼の後任は文官で、収容所の状況は徐々に良くなっていきました」
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年1月26日