留学生たちは日本で革命を広めると当時に、革命団体の組織も行っていた。中国初の革命政党同盟会の成立は、その思想と組織の基礎となった。1905年8月20日、東京で中国同盟会が正式に成立した。統計によれば、1905~1907年までの間、資料が残っている会員数だけで379名、そのうち留学生と学生が354名を占め、ほとんどが在日留学生だったという。さらに、同盟会の主要指導者や各部門の責任者も総理の孫中山を除いて、副総理に当たる黄興、総務庶務課を仕切る劉揆一、宋教仁、張継、書記科の馬君武、田桐、胡漢民、外交を仕切る程家檉、寥仲愷、評議部の汪精衛、朱執信、馮自由、呉玉章、司法部の鄭家彦等、そのほとんどが在日留学生だった。また、同盟会機関報『民報』の編集者も基本的には全て在日留学生だった。さらに、同盟会が、群衆を立ち上がらせるために中国各省へ派遣され、同盟への希望者がいればその儀式をとり行う「主盟者」も、そのほとんどが在日留学生たちだった。
革命を全国へ広めるため、多くの留学生が日本での学業を放棄し、帰国して革命活動を行なった。彼らは帰国の際、密かに鄒容の『革命軍』、陳天華の『警世鐘』『猛回頭』、そして『民報』や『江蘇』等の革命書籍を大量に国内へ持ち運び、広く革命思想を流布していった。また、彼らは中国国内各地で学生、新軍、会党など、さまざまな革命団体を組織し、これらの団体は辛亥革命において重要な役割を果たすこととなった。辛亥革命の中でもう一つ重要な力になったのが新軍で、各地の新軍の武装蜂起は主に日本に留学経験のある士官学校の学生たちが行なっていた。彼らは、日本の陸軍士官学校などの軍事学校で軍事を学んでいたため、帰国後、多くの省の総督長官が彼らを新軍の将校にし、要職に当たらせた。中には、新軍の統制や協統、標統、つまり師長、旅長、団長等の高い地位に着いたり、陸軍学校の監督、つまり校長になったりした者もおり、事実上、一定の軍事権力を掌握し、後の辛亥革命の各省武装蜂起において重要な軍事力となった。
留学生たちはまた、各地で積極的に武装蜂起を立ち上げ、それに参加した。多くの者がその青春や命を革命事業に捧げたのである。1906年の萍瀏礼蜂起は、同盟会が発動した初めての大規模な武装蜂起で、同盟会は湖南の日本留学経験者、劉道一を湖南省と江西省の境界部へ派遣、会党の蜂起を起こさせたが、蜂起勃発後、彼は清政府に捕らえられ処刑されてしまう。劉道一は、反清蜂起に参加して殺害された一人目の日本留学経験者であり、同時に同盟会会員として革命のために犠牲となった第一人者である。1911年4月27日、同盟会は広州黄花崗蜂起を発動、これは同盟会の武装蜂起の中でも比較的規模の大きいものであり、その被害も甚大なものだった。当時の指揮者は黄興だった。黄花崗72烈士の中には、喩培倫、方声洞、林覚民など日本留学経験者も少なくない。
多くの留学生は迷わず革命に参加し、中国資産階級革命派及び辛亥革命の先鋒や中堅となった。彼らは革命思想を宣伝し、革命団体を発足させ、武装蜂起を発動し、中国民主革命事業に大きく貢献した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年9月22日