園内には観光客が自ら体験できるイベントがたくさん用意されている。例えば、正大光明観光スポットの「皇帝の即位式典」、中心劇場の「皇帝の妃選び」、方壷勝境の「皇帝の娘が夫となる男性を選ぶ」などがある。毎晩、5500人が収容できる中央演舞場ではワイドスクリーン式の舞踊劇が上演される。3000人収容できる宮廷レストランに入れば、おいしい中華料理と西洋料理が賞味できる。
古代建築物を模倣した観光スポット――円明新園は世界でもまれなもので、中国の文化、西洋の文化、歴史的文化、観光文化、商業文化、グルメ文化を融合させた大きな文化・観光スポットである。これは美しい珠海市に色彩を添えるだけでなく、中国の愛国主義教育にとっての重要な教育基地にもなっている。
「正大光明」観光スポット
「正大光明」観光スポットは円明新園に入ってからまず目にする皇室の建築物である。これらの建物は雍正初年に建てられ、大宮門、正大光明殿、東西の配殿からなっている。
高くて荘厳なる正大光明殿は皇帝が大臣を集めて、政務を司る場所であり、清代の紫禁城以外のもう一つの政治的中心である。殿内に入ると、まず目に映るのは皇帝の九竜玉座である。昔の陰陽説の中では、九は一番縁起のいい陽数であることから、皇室の建物は九と九の倍数を使ったものが多いのである。これによって、皇帝は最高権力を握る「天子」であることを示している。玉座の上に「勤政親賢」(政務にいそしみ、賢人に親しくする)という額が掛かっている。これは皇帝が政務にいそしみ、諫言や忠告を聞き入れるべきだとの戒めである。
玉座の両側に、吉祥の意を表わす宝象、鹿のツノ、鶴、とぐろを巻いた竜の模様のある香亭など皇室の四つの宝物が置いてある。皇帝が正大光明殿で式典を行うたびに、殿内に飾っているこの四つの宝物には一斉にビャクダンが点され、殿外の階段に飾っている鼎炉、銅亀、銅ツルも松やコノテガシワの枝とビャクダンが点され、殿内・外に煙が立ち込め、神秘さと荘厳さをいやがうえにも増すのである。
正大光明殿の天井の真中にきらきら輝くとぐろを巻いた竜の模様のある「盤竜藻井」である。これは飾りものであり、火を鎮める吉祥物でもある。昔、中国の建築物は木造であったため、火災は大きな災禍であったわけである。「藻井」という二字はいずれも水と関係があり、竜はまた水を生じて火に克つことができる。宝珠を口にくわえた大きな竜はとぐろを巻いて、上は丸型で、下は四角形を呈している。大きな竜は天子のシンボルである。昔の人たちは天は円型で、地は四角形だという説を信じていた。これは皇帝が宇宙すべてを司ることを表わしている。
当時は封建社会であったため、皇帝や大臣以外のものは誰もこの正大光明殿に入ることができなかったのである。が、円明新園では、お客さんは殿内に入れるばかりでなく、玉座に坐ったり、竜の模様の付いた長衣を着たりして、皇帝、皇妃の威厳を自ら体験することもできる。
毎日の午前中には、「皇帝の即位式典」あるいは「清の宮廷の祝賀の儀式」の出し物を観賞することができる。雄大で壮観な場面は康熙、乾隆の全盛期の様相を示すものである。
東西の配殿は円明園の歴史を記載したものを展示した史料館である。ここに展示されている写真、実物および大量の説明文字を通して、円明園の興隆と衰退の歴史や円明新園の建設などについて知ることができる。二つの展示室は「国が衰えば、円明園も衰え、国が強大であれば、円明新園も興隆する」という愛国主義のテーマをそれぞれ十分に表わしている。
宮廷レストランと珍味
宮廷レストランは円明新園の東側にあり、敷地面積は5000余平方㍍で、清代の宮廷式建物で、「回」の字の形をしている。建築物全体が円明新園の配置と一致したものであるばかりか、独特の風格をも持っており、皇族の高貴さが十分現れている。
レストランは経営形態と特色によって三つの部分に分かれている。三つの部分はいずれも昔は吉祥の意を表わすものであった「万」字を冠して、それぞれ「万景楼」、「万趣食街」、「万興食街」と名づけられている。3000人の人たちがここで同時に食事をすることができる。
レストランの内装、用品用具、服飾、サービスはすべて清代の様式を模倣したものである。宮灯と言われる大きなちょうちんが高く掛かげられ、酒屋の看板が風に吹かれてひらひらと揺れ動き、宮廷音楽が構内に響き渡っている。清代の服飾を纏った宮女たちが酒屋、レストラン内を行ったり来たりすることによって、清の康熙、乾隆の全盛期の繁栄ぶりを再現している。
万趣食街はもっとも規模の大きな、特色のある宮廷レストランで、その特色は「万趣」の二字から十分理解できるはずである。ここには古今中外、各地方の軽食四百余種類が集められ、イタリアのピザ、インドの飛天煎餅、日本料理、広東料理のスープ、中国北方の名物シンカバブー、雲南省の竹筒入りご飯、四川省の激辛のシャブシャブ料理などなど何でもそろっている。「宮廷レストランに入れば、どこのおいしいものも食べられる」というのは過言ではないだろう。
万趣食街は各地から腕ききのコックさんを招聘し、お客さんの注文に応じて即座に調理する経営形態を取っている。名人芸を身に付けたコックさんが現場で技を披露するのもよく見られる。コックさんの名人芸を楽しみながら、食事を済ませたあと、宮女たちの「またいらっしゃい」という別れの挨拶を耳にすると、きっと帰るに忍びない気持ちになることだろう。
万景楼は宮廷レストランの二階にあり、観光ツアー客の受け入れや宴会を催す場所である。ここでは観光ツアー客の皆さんのために「宮廷八絶宴」「乾隆江南宴」を用意している。食事を取りながら、園内の景色を眺めたり、宮廷音楽を鑑賞し、雑技のショーを見たりすることができ、本当に楽しいひとときを過ごすことができる。
古今の食文化を融合し、食事を通してかつての歴史を再体験できる宮廷レストランで民族文化の特徴を十分味わうことができるに違いない。
九洲清晏観光スポット
九洲清晏観光スポットは皇帝、皇后のがひと休みする場所で、三つの進殿からなっている。
第一進殿―円明園殿には、清代の八旗という制度と武器装備が展示されている。八旗とは清代の軍隊の編制のことで、清の始祖であるヌルハチが創建したもので、満州族は八旗の軍隊の力によって天下を統一したのである。清代の軍隊の制度は二種類に分かれている。一つは満州族、漢族、蒙古族の八旗の兵士で、これは義務兵役制だった。満十六歳の男子はすべて入隊することになっていた。全国では22万人ぐらいの義務兵がいた。もう一つは緑営兵で、これは清が中国の東北部と河北省の境にある関所である山海関以南に入ってから再編、募集した漢族の軍隊で、陸軍と海軍に分かれ、全国では66万人に上った。
清代の武器は「軍器」と「火器」の二種類に分かれていた。「軍器」は兵部によって造られ、中国の伝統的な18種の兵器のことである。「火器」は銃と大砲を指す。中国は最も早く火薬を発明した国ではあったが、この発明を武器装備にうまく応用しなかった。清代後期になっても、国産の銃砲は依然として西洋人の銃砲に及ばなかった。そのうえ、清政府の腐敗が加わり、アヘン戦争の敗戦や円明園の焼きょうちなど一連の敗北を招くことに至った。
第二進殿―奉三無私殿の西側は皇帝が朝廷で政務を司ったあとでひと休みする場所だった。皇帝はここで読書したり、碁を打ったりした。宮廷内の生活をより真実の姿で反映するため、毎日、ここで清代の宮廷のエピソートをもとにした出し物が上演されている。
殿の東側には有名な歴史上の出来事―「垂簾聴政(西太后が幼帝の代わって政をきいたこと)」を模倣した場面がある。前に坐っているのはわずか6歳の同治皇帝で、その後ろに左側に坐っているのは端正で、聡明な慈安皇后、右側に坐っているのはあの有名な慈 皇后(西太后ともいわれた)である。慈 皇后は一生の中で二回も「垂簾聴政」をしたことがある。一回目は同治皇帝のとき、2回目は光 皇帝のときだった。
第三進殿―九州清宴殿には皇帝の食事「満漢全席」の一部分と皇帝の書斎の置物が展示されている。
「満漢全席」は128品の料理からなるものである。料理に使われた材料がきわめて貴重なもので、満州族の料理、漢族の料理とそれぞれ特徴があり、軽食類、満州族のお菓子もたくさんそなえられている。食事の礼儀作法、順序、並べ方などが厳しいしきたりがあるのである。でも、円明新園ではそんな制約はが一切ない。お好みでしたら、宮廷レストランで「満漢全席」を思う存分味わうことができる。
皇帝の書斎の真中は太子の玉座で、玉座の左側は太子を教える人の座る席で、右側は太子の勉強の相手をする人の座る席である。勉強の相手をさせるのは、一つには太子に勉強に励むよう督促するためで、いま一つは太子の替わりになって罰を受け、太子を直接しかる訳にはいかないので、あてつけにののしる人としての役割を果たすのである。
「平湖秋月」観光スポット
「平湖秋月」観光スポットは雍正年間に建てられ、杭州の西湖十景の一つである「平湖秋月」を模倣したものである。造型は杭州の西湖の「平湖秋月」と「双峰挿雲」観光スポットの粋を取り入れたものである。建築物群全体が栗色の柱、ピンクの壁、黒い瓦からなり、まがりくねった長廊があるのである。長廊は色鮮やかな蘇式の彩色絵で飾られている。彩色絵は中国の木造建物を飾る大昔から存在していた芸術で、また木材を保護する措置の一つでもある。円明園の彩色絵は殿式の彩色絵と蘇式の彩色絵に分かれる。朝廷の政務用の建築物はすべて殿式の彩色絵が施され、普通の亭台、楼閣は蘇式の彩絵が施された。蘇州は蘇式の彩色絵の発祥の地で、山水、人物、花鳥、立体構図を主とし、一枚の絵が一つの物語を語っているものである。彩色絵に色どられた長廊は一巻の絵物語のようなものである。見学者はそれに見とれて帰るのを忘れるといわれている。蘇式の彩色絵は円明園の彩色絵の中でもっとも重要な地位を占めている。
円明園の中の「平湖秋月」に清代の知名人の書画、清の皇帝の真筆が保存されている。清代の皇帝の書の造詣について言えば、雍正皇帝を取り上げなければならない。
雍正皇帝の書の造詣はその父である康熙帝や息子の乾隆帝には及びませんが、その書は特色のあるものである。雍正皇帝はいつもそれを自慢にしていたそうである。正直に言えば、雍正皇帝は書に長じていたもである。後世に伝わる雍正皇帝の親筆は行書が多く、洒脱で、豪放で生き生きとした筆法という特徴がある。草書は後世に伝わるものが少ないが、目にすることのできるものについて言えば、雍正皇帝の性格そっくりで、筆法はなめらかで、大胆さをあらわにしている。雍正皇帝は自分の字はきれいだと言ったことはないようですが、適当な場合においてはいつも自分の字をひけらかすことを忘れなかったようである。
雍正元年の旧暦八月十日、雍正皇帝は康熙皇帝の陵墓碑の額を自筆で書き、長眠した父親に献じた。そのあとを継いだ皇帝が先帝の陵墓碑の額に題字を書くのは常識だったが、雍正は書き終えてから、すぐ親王や書に詳しい大臣に同じものを一部ずつ書くことを命じると同時にこう付け加えた――今回の陵墓碑を朕は敬意をこめて自筆で書き上げた。これは朕の長所を誇るのではなく、この儀式があまりにも重要であるので自ら書かないと落ち着かないからだ。朕が書いたものを使うとは限らず、一番よく書いたものを使えば、朕は嬉しく思う、と。しかし、封建時代では皇帝より字がうまいと言える大臣はいませんから、親王、大臣がよく見た結果、やはり皇帝の字がいちばんすばらしいという結論を出すことになった。雍正皇帝の字は当然当時の書の手本になった。