都江堰は、四川省の省都・成都市から西北へ約50キロ、車で高速道路を経由して約30分の場所にある。ここは川西平原と青海・チベット高原の縁辺にあたり、中国西部の山々から発した流れが長江の支流・岷江をつくって、一帯をうるおしている。もともと古代の岷江は、はん濫の絶えない「災禍の河」として人々に恐れられていた。紀元前277年、徐々にその勢力を伸ばした秦の国は、勢力拡大と他の六国(斉、楚、燕、韓、趙、魏)の統一のために、蜀(今の四川省)の豊かな資源を利用しようとした。そこで秦の昭王(始皇帝の曽祖父)は、軍事家であり科学者の李氷に蜀郡の太守(長官)を命じ、当地に派遣した。李氷は「西北部が高く東南部が低い」成都平原の地理を利用し、民を率いて8年がかりで紀元前256年、岷江の分水と治水、土砂排出と防災の設備ともなるこの都江堰水利施設を建設したのだ。
都江堰風景区にある東岸の高台にのぼると、都江堰の河口が三つの部分からなるのがわかった。北部には、分水用の中州・金剛堤の先端となる「魚嘴」があり、岷江の流れを二分していた。中部には、岷江の流れを内江・外江に分ける長さ一キロもの金剛堤が横たわり、その南側に洪水を押し流し、土砂を排出する施設「飛沙堰」が施されていた。南部には、用水路への流れを自動制御する役割の「宝瓶口」があった。李氷が民を率いて築いたもので、その壮挙にはただ感服するのみだ。高台から北へ降りて、李氷父子をまつる祠堂「二王廟」を訪れた。 二王廟は、山のふもとにそびえる敷地面積5万余平方メートルの建築群だ。山頂から下りつつ、まず訪れたのが二王廟の後ろに構える主殿「老君殿」である。今も道観の役目を果たす二王廟には、道教の多くの神々がまつられていた。建物の外に設けられた回廊を歩くと、頭上の梁には、李氷の治水経験をまとめた六字訣「深淘灘、低作堰」(灘を深く淘い、堰を低く作る)が刻まれており、とりわけ人の目を引いた。
李氷をまつった「李氷殿」では、二人の若い婦人が李氷の塑像に線香を供えていた。その姿はつつしみ深く、李氷へのあつい崇拝の念がうかがえた。この外側の回廊にも同じ六字訣が刻まれていたが、殿内の壁には、古代人の治水経験を石に刻んだ三字訣、八字格言がはめ込まれていた。さらに行くと、李氷の後代に都江堰を維持、修理した人々を称えた「堰功祠」があり、中には三国時代の蜀の名宰相・諸葛亮の名前もあった。当時、諸葛亮は都安堰(今の都江堰)を視察して、「この堰は、蜀の農業の命脈だ。わが国(の存亡)は北伐を支持し、中原を平定することにかかっている」と語ったという。また1943年、アメリカの大統領補佐官・フォレスタルは、中国と共に結んだ「反ファシズム侵略同盟国」の代表の一人として訪中し、抗日戦争の銃後となった都江堰を視察して、「都江堰は、中国の誇りだ。それはわれわれが共にファシズムに打ち勝つ、大きな支えとなるだろう」と語っている。 二王廟の前門を出て、岷江にかかる安瀾索橋を渡ると、そこが金剛堤だった。堤の両側には丸石が整然と築かれており、古代人の労苦のほどがしのばれた。金剛堤の南、飛沙堰のそばからは、とうとうとした内江の流れの中に、李氷が築いたダム「離堆」の雄姿が見えただけ。というのも降雨の後で、水かさが増していたからだ。さかまく怒涛は、離堆によって二分され、一方は東側の灌漑用水路に引かれ、もう一方は排水用の水路に引かれていた。
離堆の上には楼閣の「伏竜観」がそびえたち、その中にはたくさんの貴重な出土文物が収められていた。1974年に、外江の深さ4・5メートルの河底から出土した後漢時代の李氷の石像は、とくに貴重な文物だ。よく見ると、前胸部と両袖部に銘文が記されていた。前胸部には「故蜀郡李府君諱氷」と、それが李氷の像であることが記され、両袖部には「建寧元年閏月戊申朔25日都水椽尹竜、長陳壹造三石人珍(鎮)水万世焉」とあった。銘文からは、後漢の寧帝が建寧元年(168年)、「鎮水」の神像としてこの石造を使ったことが明らかにわかる。 伏竜観の大門を出て、新設された堰功大道を通った。大道の両側には、都江堰の建設に貢献した歴史上の功臣の塑像が建ち並んでおり、おのずと気持ちがひきしまった。
登山道に入ると、竹製のかごを担いだ農民たちに出会った。「乗らんかね?」「~まで××元だよ」「乗っていきなよ!」。彼らは私を囲んで、取り引きをしだした。撮影のため機敏に動きたかったので、かごでの登山は諦めざるをえなかった。今度は老人が一人、わらじの束を担いで登ってきた。かごやが一斉に取り囲み、わらじを求めた。それをのぞくと、わらじは一足5元(1元は約15円)と高いが、それだけになかなか頑丈に作られていた。わらの中に麻がしっかりと編み込まれ、その質と強度を増していた。私も子どものころに、故郷の四川省で一度だけ履いたことをふと、思い出した。やんちゃ坊主だった私がわらじを履いて駆けまわると、二日もしないうちに底が擦り切れたものだ。「このわらじは、どうだい?」。そうかごやに聞くと、「ああ、いいよ、一週間以上は持つねぇ。それに雨が降っても、滑らないんだよ」。なるほど、わらじの質は当時とは比較にならないほど良かった。
後漢の順帝の時代に、道教の大師・張陵は道家の学問「黄老之学」を用いて、古代巴蜀の「五斗米道」(道教最古の一派)を「天師道」に改めた。そのため青城山は天師道の発祥地の一つとなり、道教の十大洞天(仙人のいるところ)の中の「第五洞天」となった。千余年の歴史に多彩な道教文化が花開いた青城山では、いたるところに道観を見ることができる。山腹にあった三叉路の入り口「四望観」で、運搬夫の張さんが「この下に、ひとけの少ない道観がある。行ってみないか?」と言う。「行こう」。彼の提案で、われわれは小路に沿って東側へと下った。1キロほど歩いたろうか。楠林の中に、古びた道観が現れた。山門前の大きな壁の上には「円明宮」の三文字がある。北斗七星の母の女神、円明道母天尊をまつった道観だった。中に入ると門の両側に対聯(めでたい対句を書き分け、門などの両側にはったもの)があり、「栽竹栽松 竹隠鳳凰松隠鶴、培山培水 山イリ虎豹水イリ龍」(竹を栽え、松を栽え、竹に鳳凰が、松に鶴が隠れる。山を培い、水を培い、山に虎豹が、水に竜が蔵む)と記されていた。対聯の両側には山水の彫刻が四組施されており、実に趣がある。道観を巡り、もっとも感心したのが、400年前に土地の職人が造ったその山水の彫刻だった。
円明宮を離れ、また西南方向に1キロほど上ると、呂祖(呂洞賓)と邱祖(邱処機)をまつった玉清宮に着いた。静寂に包まれた山の斜面に、玉清宮はたたずんでいた。殿堂の平台の上から見下ろすと、たちまち視界が開けた。付近一帯には茶園が広がり、道士や居士(出家せずに道を修める人)らがちょうど茶摘みをしているところだった。また遠方には、霧に覆われた青城山の山並みが、かすんで見えた。 正午近くなり、私たちは玉清宮で昼食をとることにした。道士たちが山の銘茶でもてなしてくれるという。入れてもらった茶からは、実にすがすがしい香りが漂った。青城山の銘茶は、千年以上の歴史を持つ。古くは宋代から、道観の道士たちが伝統的な技術を用いて、皇帝に貢ぐための茶を生産した。それが今に伝えられ、人々に「貢茶」と呼ばれて親しまれている。のどの渇きをいやそうと一口ふくむと、貢茶のうまみが胃の腑にしみて、なんとも爽快な気分になった。道士たちが茶園から戻り、ともに食事となった。主食のご飯に、惣菜は泡菜(四川省の漬物)と油で揚げた干しトウガラシ。それにわれわれ遠来の客のために、スペシャルメニューとして松花蛋(ピータン)二個と焼きトウガラシを用意してくれた。けっして豪華な食卓とはいえないが、道家の真の精進料理に親しむことができ、喜びも倍増した。
玉清宮の道士たちと別れ、また山頂を目指した。「観音閣」「上清宮」などの建物を過ぎて、ついに標高1260メートルの「青城第一峰」と呼ばれる彭祖峰に到達した。頂には、高さ33メートルの八角六層の塔形の楼閣「老君閣」がそびえたっていた。老君閣の中は吹きぬけになっており、高さ16メートルの銅像「老君騎青牛」が配置されていた。老君閣の外側にはらせん階段があったので、てっぺんまで上り、青城山の幽境をこの目に収めた。その厳かな世界は、老君閣の円柱にあった対聯に、見事に表されていた。 耘苑奇観、東来紫気無双閣 耘苑(仙境のこと)の奇観、
「人民中国」2008年5月18日 |