乾隆35年(1770年)は乾隆帝の60歳の誕生日(中国では、60歳、70歳、80歳などの誕生日が特に重視される伝統がある)で、翌年は乾隆帝の母親の80歳を迎える年だった。そのためチベット、青海、新疆、モンゴルなど各地の首領は、お祝いのために承徳に集まってくることになっていた。
乾隆皇帝はこの2つの盛会を非常に重視し、チベットのポタラ宮を模して承徳に普陀宗乗之廟を築造した。「普陀宗乗」はチベット語の「ポタラ」の意訳で、この廟も「ポタラ」の異名を持つ。しかし実際のチベットのポタラ宮ほどは大きくないため、人々からは「小さなポタラ宮」と呼ばれてきた。
普陀宗乗之廟の白台、山門、碑亭などは山麓に作られており、大紅台や屋敷は山の頂上に建てられている。建築群は主に、山門、碑亭、五塔門、瑠璃牌坊と、大小さまざまな白台、大紅台の3つの部分に別れている。「白台」が上部の「紅台」を支えるように×の形をしており、下には山門、碑亭、五塔門、瑠璃牌坊などが配置されている。中国の寺院でこうした建築物の配置は珍しい。
大紅台の南側の中心の壁には、6つの瑠璃製の仏龕が上下にはめ込まれ、六体の無量寿仏が安置されている。また中央部の万法帰一殿の屋根は、700キロにも及ぶ黄金で覆われており、中には銅製の仏像が多く祭られている。
「チャイナネット」2008年11月13日