1984年初頭、中国政府は対外開放をさらに拡大するため、経済特区で成功した経験を生かして沿海部都市に経済技術開発区を設立する決定をしました。同年から1988年にかけて、国務院は14の開放都市のうち12都市、大連と秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、上海の閔行と虹橋に漕河涇、寧波、福州、広州、堪江、合わせて14の経済技術開発区の設立を認可しました。
その後、鄧小平氏が南方を視察した際に発表した重要な談話を受けて国務院は、1992年から1993年までに営口と長春、瀋陽、ハルビン、威海、昆山、杭州、蕭山、温州、福清融橋、東山、広州南沙、恵洲大亜湾、蕪湖、武漢、重慶、ウルムチ、北京の18カ所に新たに開発区を設置することを認可。続いて2000年から2002年には、合肥と鄭州、西安、長沙、成都、昆明、貴陽、南昌、新疆石河子、西寧、フフホト、南寧、太原、銀川、ラサ、南京、蘭州の17カ所に開発区が誕生しました。
また国務院は、蘇州工業団地や海南洋浦経済技術開発区、上海金橋輸出加工区、寧波大榭経済開発区、厦門(アモイ)海滄投資区に対し国家クラス経済技術開発区が進めている政策を実施することを認可しました。
国家クラス経済技術開発区は沿海部の開放都市とその他の開放都市に画定された小ブロックの区域です。投資に向けたハード環境の整備とソフト環境の完備を円滑に進めることに力を集中するとともに、外資導入と工業プロジェクトの振興、製品の加工と輸出、ハイテク産業の発展を主体とする方針を堅持しながら、それぞれの開発区が急成長する道を模索してきました。こうした努力が開発区の所在地や周辺地区の経済や技術を発展させ、体制を改革するうえで推進的な役割を果たしたのです。
これまでの実践で明らかなように、経済技術開発区は対外開放や外資導入、実験的改革、科学技術レベルの向上、地域の経済構造や産業構造の調整の促進などの面で窓口となり、幅広い影響を与え、またモデル地区としてけん引車役を担ってきました。開発区は高度成長をとげ、科学技術は著しく進歩し、収益は順調に伸び、その制度は益々強みを発揮しており、国民経済にとって新たな、かつ重要な成長基地、輸出拠点、外国企業の投資先となっています。
沿海部の経済技術開発区が収めた成果、地域経済の健全な発展を有効的に促進してきたことを総括したうえで、西部の大開発戦略を実施する重要な措置の1つとして、国務院は1999年、「中西部の各省・自治区・直轄市が省都あるいは首府に条件に合致し、すでに建設した省クラスの開発区を選択して国家クラスの経済技術開発区として申請することを許可する」決定を下しました。
これによって国家クラス経済技術開発区は合計54カ所にのぼり、河北省の石家荘と山東省の済南を除いて全国の各省の省都、自治区首府のすべてに開発区が設立されたことになります。うち東部沿海部では、最近設立が認可された南京を含めて32カ所、中西部地区は22カ所。国家クラス経済技術開発区は全国の各省、直轄市、自治区の中心都市に合理的に配置されています。西部大開発戦略の実施を促進し、東部と中西部間の経済技術協力を大々的に強化するうえでプラスであり、地域経済の協調の取れた発展を促進するうえでも一段と積極的な役割を担っており、外国企業にも対中投資で幅広いチャンス選択の余地が与えられました。
「チャイナネット」2004年1月