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一汽──中国自動車工業の縮図
発信時間: 2009-06-21 | チャイナネット

北京週報記者  蘭 辛珍

中国第一汽車集団公司(略称「中国一汽」)の管理陣がいま、その国際化戦略のために奮闘している。先ごろデトロイトで起こった大激動が彼らに危機感を抱かせるとともにチャンスを見出させたのだ。

 

「われわれは海外市場参入の難易度と市場吸引力に基づき、海外市場を戦略的市場と重点的市場に区分けしています」と語るのは中国一汽の党委員会副書記である馬振東氏だ。

 

目下、一汽の製品はすでに中国国内では主な市場シェアを占めており、国際市場では同社が生産するトラックは主に中東、セダンは中南米やアラブ諸国、部品は欧米などの先進国市場を中心にそれぞれ売られている。世界金融危機は世界の名立たる自動車企業の販売を萎縮させてしまったが、中国一汽の生産・販売量は依然として伸びている。

 

北京から飛行機で1時間余り東北に移動すると吉林省長春市に着く。長春市街区の西南隅に東風大街と呼ばれる通りがある。その名は、中国初のセダン車である中国一汽の「東風」に由来する。中国一汽があることから長春市までもが「中国の自動車都市」と言われている。

 

50年余り前には、まだ手作業で鉄を打って車をつくるような企業であった中国一汽は、今や現代化された一貫生産ラインによって自動車を生産する大企業となった。

早期の中国一汽は、数本の鋼管で鉄板を固定したあと手で打ちつけて外装をつくるという生産方法をとっていた

 

中国初の自動車製造工場

新中国が成立したとき、中国はまだ立ち遅れた農業国で、はなから工業規模などを語れる状態ではなかった。1952年には現代工業が中国の農工業総生産額に占める比率はわずか26.6%であった。中国にとっては工業、とりわけ重工業の極端に立ち遅れた状況を早急に改善することが緊急課題であった。当時の資料によると、1950年ごろ、中国政府は自動車製造工場の建設をソ連に援助してもらうことを決め、それによって工業を発展させようとした、と馬振東氏は言う。

 

1953年7月15日、中国第一汽車製造工場の建設が着工した。馬振東氏によると、工場をどこに建設するかをめぐって、当時は議論が沸騰したという。中央政府が組織したワーキングチームは北京、河北省の石家荘、山西省の太原、太谷、平遥、祁県、陝西省の西安、宝鶏、湖南省の湘潭、株州などの地区に赴き、選定作業を進めたが、最終的に長春市を選んだという。その理由は、長春は東北三省の中心で、東北地区には豊富な鉱産物資源があり、なおかつ京哈鉄道(北京=ハルビン)が工場予定地近くに通じているため、工場建設時に大量のソ連の設備を搬入するのに便利であり、操業開始後には近くの東北の鉄鋼、石炭、木材、水道、電気などの資源を利用するのに便がよいことであった。

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