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一汽──中国自動車工業の縮図
発信時間: 2009-06-21 | チャイナネット

馬振東氏によると、改革開放後、中国一汽は海外の先進技術を全面的に導入しようとしたことがある。1978年末、日本の三菱、いすゞ、日野、トヨタの四大企業を視察、諮問のために招き、見積もりをとった。提出された予算は、当時、一汽が有していた25の専門工場のうち、車体、エンジン、シャシなどの6工場だけを年産15万台として更新、改造した場合、17億から26億元が必要というもので、残る19工場の改造に対する投資はその中に入っていなかった。これらの案は、資金が欠乏し、専業化された設備能力が低かった当時の中国の状況では無理なことが明白であった。

 

一汽は自らの道に戻って自力更生の道を歩まざるを得なかった、と馬振東氏は言う。

 

1983年7月、中国一汽は製品の「モデルチェンジ」に着手し、その後の3年間で4億4000万元を自ら資金調達して、海外の専門家が26億元必要だとしていた改造プロジェクトを達成した。

 

1986年7月15日、新型「解放」の一定量の試験生産が始まり、1987年1月1日には80年代で国際的にも先進レベルにある第2世代の新型「解放」車が誕生、トラックの生産量は6万台から8万5000台へとアップした。

 

馬振東氏によると、当時はちょうど中国が改革開放を進めている時期で、中国の自動車製造工場が増え続け、海外ブランドも大量に入ってきて、一汽にとっては大きな競争圧力になっていたという。中国一汽の管理体制がすでに市場競争に適応できなくなっていたため、中国一汽は技術のグレードアップと同時に、自らの体制改革も進めることになった。

 

いま、一汽の改革の歴史を振り返ってみると、一汽が大多数の国有企業と同様に、計画経済下の大型国有企業から市場経済のもとでの現代企業制度を打ち立てるという改革の過程を経て、単なる工場から会社組織への転換を達成したことがわかる。

 

今や、一汽には100%子会社が28社、持ち株会社が18社あり、そのうち4社が上場企業である。主な業務は、研究開発、乗用車、商用車、半加工部品などの分野に及び、従業員は13万2000人、総資産は1340億元である。

 

世界に踏み出す中国一汽

中国の自動車工業の発展が本当に始まったのは1988年である。そして、これは中国一汽が大きく発展した時期でもある。

 

1987年8月、国務院は重大な戦略的決定をした。それは、中国は一汽、二汽(中国第二汽車集団)、上海市に三大乗用車生産基地を築く、というものである。

 

国が一汽セダンのプロジェクト立ち上げを許可すると、アメリカのGMや日本の三菱、ドイツのフォルクスワーゲンなどがこのプロジェクトをめぐる競争を繰り広げ、いずれも一汽との協力の意向を示した。最終的に、一汽はフォルクスワーゲンを選び、1988年5月17日、双方は技術協力協定に調印した。

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