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チベットに3年 寄せる思いは終生
発信時間: 2009-10-20 | チャイナネット

 

遼寧省地質鉱産研究院 王渊博

チベットのことに触れるたびに、私は高ぶる気持ちを抑えることができません。広々として果てしない草原に、純朴で善良な牧畜の人びと。風に揺らぐ「経幡」(経典の内容を記した旗)、悠々自適なカモシカ、野生のロバ……。そして一緒に生活をし、仕事をした地質隊員たち。

チベットには、長年にわたり茫々たる雪の高原で闘ってきた地質調査隊がいます。チベット地質鉱産庁第5地質大隊。藏北(チベット北部)地区での鉱物資源の実地調査がその任務です。藏北高原は崑崙(コンロン)山と唐古拉(タングラ)山、岡底斯(ガンディセ)山、念青唐古拉(ナンチェン・タングラ)山の間に位置し、なんとチベット自治区面積の3分の2を占めています。那曲(ナクチュ)と阿里(アリ)、この2つの地区の平均海抜は4500メートル以上。常に冬で夏はなく、年平均気温は零下5-6℃、最低気温は零下40℃前後。酸素量は内地の半分、世界第3の生命危険地帯に数えられています。気候は劣悪、絶えず変化することから、第5地質大隊は本拠地をチャイダム盆地南縁の崑崙山麓、50年代にテント村のあったコルムドに構えました。

私は99年3月、大隊から商旭岩金開発公司の技術責任者に委任され、商旭岩金で鉱物採掘工場を建設することになりました。5月のチベット北部。気候は変幻無常、1日の温度差は28℃、空気はかなり乾燥していました。呼吸困難を覚え、唇はひび割れて耐え難く、チベット族の戦友が酥油茶(スーヨー茶・牛や羊の乳で作ったバター入りのお茶)を飲むよう勧めてくれたおかげで、かなり回復しました。

大隊の決定で、私は海抜4900メートル以上にある改則(ガイゼ)県の地質分隊の事業指導に派遣されることに。まる2日かけて、予定通り、ガイゼ県の分隊のある吉嘎爾曲(ジグアチュ)に到着しました。8月は雨季。そのため、毎週のように移動して掘削の場所を変えなければなりません。テントを車に積み、降ろしては組み立てる。1日に1食しか食べられないときも。一番困ったのは、車がぬかるみにはまったときでした。そうなれば、飢えながら、泥を除いたり、車を持ち上げたり、数キロ歩いて石を拾って道に敷いたり……。そして夕方、饅頭を少々口にしながら、雪水を飲んで車で夜を過ごすだけ。8月13日の朝、その日の仕事の手配を済ませ、技術者と一緒に地質の分析サンプルの収集に行ったのですが、その帰り道、車がぬかるみにはまってしまったのです。丸4時間にわたる奮闘の末、小型ジープはようやく脱出。同僚が飲み水を見つけてくれて一気に飲んで、立ち上がろうとしたのですが、どうしても立ち上がれない。朝はろくに食べ物を口にせず、昼も野生のシイタケを食べただけ、それに加え車の支援による疲労が重なり、意識を失ってしまいました・・・・・・。

分隊員16人は10月13日、収めた成果を胸に5台の車に分乗して家路に。その途上、2台の車が泥道で立ち往生し、しきりに助けを求めているのを目にし、すぐに車を降りて手を差し伸べました。インスタントラーメンや饅頭なども。回族の3人は非常に感激した面持ちで、握手した手をいつまでも離そうとしませんでした。牧畜地帯で仕事をしていたときには、いつでもチベット族の引っ越しなどいろいろな面で手助けをし、また数の限られた衣料品や小麦粉を届けたりして、感謝されたものです。

チベットに3年、思いを寄せることのなんと多いことか。心からチベットに感謝したいと思います。そして、チベットの地質事業が西部大開発を機にさらに進展するよう期待しています。

「チャイナネット」 2009年11月

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