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07年の「中国十大考古学新発見」・江西靖安李洲坳東周墓葬
発信時間: 2008-05-12 | チャイナネット

江西省靖安県水口郷李家村の茅屋組洲坳山の東斜面に位置し、土を封じた大型の竪穴式古墳である。従来の封土の高さは約12m。底部は円形で、直径30-35m、敷地面積は1100㎡。封土の真ん中、下方の位置に掘られた長方形の竪穴が墓穴である。墓穴の南北の長さは14.5m、東西の幅は11.3-11.7m、墓の入り口から底部までの深さは約4m。墓穴の四面の壁は垂直で、表面に青い糊状の泥を塗って保護されていた。墓の東壁の南端に、東壁とほぼ垂直に東西に斜めの墓道があった。墓道の幅は3.2m、斜度は25度。

墓穴の底部は東南が高く、北部が低く、平坦ではない。埋葬する際は先ず、厚さ40-60cmの青い糊状の泥を敷いて、底部を平らにした。泥の上には棺が47基置かれていた。棺の底部には一般に筵(むしろ)を敷いていた。筵の上にはさらに棺を縛る竹縄の跡が非常にはっきりと残っていた。棺は何層も筵で包み、埋葬後にさらに青い糊状の泥で墓や棺を覆う。その後、厚さ約10cmの黄土で棺と墓の底を覆い、打ち固めて火葬した。

 

狩猟文様の錦

 

墓穴内の土埋めは北から南へと徐々に打ち固められ、4層に分かれており、層によっていずれも土の色は異なる。各層の間は大きな石で隔てられていた。墓の入り口まで土を埋めると、広い範囲にわたって封土する。棺は主に東西の方向に分布しており、ぎっしりと並び、大きさはほぼ同じで、大半が完全な形で残っていた。棺はいずれも上下が半円形の構造で、原木を半分に切り開き、斧や鑿(のみ)でえぐって作られた。棺の大多数は東西、いくつかが南北に向いていた。頭は東、足を西にし、仰向けになって脚を伸ばしており、いくつかが横向きなって脚を曲げていた。埋葬する際に紡織品の材料または筵で遺体を包み、あるものは衣類を着けていなかった可能性もある。副葬品は死者の脚脇または脚脇の竹かごに置かれ、最も多くて19点、最少で3点。副葬品は小型の青銅製の加工工具や木質の紡織工具、漆の勺など。小数だが原始的な青磁器、青銅鼎、彩色漆の剣も出土した。22基の棺から遺骸が見つかり、いずれも女性で、15-25歳と見られる。

出土品は約650点。竹や木の器が144点、漆器は12点、玉器13点、青銅器30点、原始的な青磁器7点、金器1点、金属器5点、紡織品が300点余り。このほか、遺骨も大量に出土した。

李洲坳墓葬はこれまで発見されたなかで時代は最も古く、棺も最も多く、構造が最も特異で、一つの穴に多くの棺が埋葬された墓である。

考古学的側面から分析すると、李洲坳墓葬の出土品は江西貴溪崖墓から出土した器物とほぼ一致する。湖南地区の越人の墓の副葬品とも似ており、南方の越人集団が持っていた特殊な文化を反映している。同時に、墓の構造や漆器の一部の特徴から分析すると、早期の楚文化の要素を備えている。李洲坳墓葬が示しているのは底の深い越文化の要素、一部で越文化の風格の影響を受けた新しい形の青銅文化を備えていることである。また、春秋時代に江西の西北部で高度な青銅文明を持った大規模な政治集団が存在していた可能性をも示している。

墓内から出土した年代的特徴が鮮明な原始的な青磁器、越式の青銅鼎を、江西やその周辺地域で出土した春秋戦国時代の同類の器物と相互に比較すると、李洲坳墓葬の年代は春秋の中・晩期、今から約2500年前ではないかとほぼ推断できる。

 

「チャイナネット」2008年5月12日

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