田研究員は次のように分析した。文献によると、秦人は紀元前677年の徳公のころから雍城に住んでいたが、紀元前490年の悼公のころに城壁の建造を始めた。埋葬地点は城壁の内側ではあるが、疑問もある。つまり埋葬されたのは城壁の建造前で、まだ雍城の郊外だったが、城壁を建設するときは以前よりも都市の規模が拡大し、結果として郊外を包み込むように城壁を築いたのではないかというものだ。そうでなければ、城内に人を埋葬するという制度上の問題が発生してしまう。
田研究員は次のように説明した。われわれは墓の年代と城壁の建造年代について、真剣に調査を行い、含有物を比較した結果、城壁の建造年代の方が埋葬時期よりも早いことを発見した。このことは、当時の秦が城内に一般の平民を埋葬する制度を持っていたことを意味する。その理由は、戦国時代に入ると、多元的な文化が形成され、秦国もほかの6国の葬送習慣を取り入れ、城内に人を埋葬する制度が導入されてのではないか。
これまで秦国の城内では春秋時代の墓葬が発見されたことはなかったが、雍城遺跡の中心部で先ごろ、中型の秦墓が発見された。田研究員は次のように述べた。比較的深く掘られた竪穴式墓坑の様式からみて、この墓は春秋時代のもので、等級は比較的高い。今回の発見により、すでに春秋時代には、城内に人を埋葬する制度が存在していたことが明確に示された。
雍城は春秋時代から戦国時代中期にかけての約300年間、秦国の政治、経済の中心地だった。つまり徳公即位後の紀元前677年に都が置かれ、献公2年(紀元前383年)に秦国東部の檪陽に遷都されるまでの間、計294年、19代の秦公が都を置いたことになり、秦国では最も長期にわたり都が置かれた都市だった。
(新華網日本語=中国通信社) 2011年7月30日