内蒙古自治区通遼市ホルチン区で面積約6万4000平方メートルの古城遺跡が見つかり、専門家は、800~1000年前の遼代(西暦916~1125年)の州城とみている。
ホルチン区文化局文化財調査チームが2009年9月、全国第3回文化財調査期間中のフィールド調査で、莫力廟ソム(郷に相当)の福巨ガチャ(村に相当)の北約3キロのところで遺跡を発見した。初歩的調査では、遺跡は東西約2100メートル、南北約300メートルで、面積が約6万4000平方メートルある。
自治区の文化財担当部局が専門家チームを派遣して調査したところ、古城内で建物の大量の遺構と鉄鍋、石臼、車具、犂、鉄製サン(金+産)(いたがね)、宋代の貨幣、鮮卑族の陶磁器片などが見つかり、遺跡の東では寺院跡も見つかった。今年4月、福巨ガチャの村民が整地をしていた際、遺跡の東部でレンガ窯跡を発見した。遺跡は新開河と西遼河に挟まれた砂丘に位置し、砂丘では陶磁器や土器の多くの破片があちこちで見つかり、その中には深緑色の釉薬がかけられた遼代の細長い形の鶏腿瓶の破片もあった。
専門家チームは先ごろGPSを使った調査で遺跡の南に多くの網目状になった地域のあることを発見した。これは壁を築いて区域を分けていたもので、この遺跡は中心の集落だったと判断される。小高い砂丘で幅35センチの瓦片が見つかった。専門家の推測では、覆われている層の下の建築物は規模が非常に大きいものだったはずで、役所が置かれていた可能性が高く、長い年月の風砂による浸食で、建物は砂に埋まり、現在の砂丘になった。
「この遺跡は規模が非常に大きく、遼代の州城だったと推測できる」、調査に参加した内蒙古民族学院歴史学院の教授で、遼史の専門家である李鵬氏はこう述べ、さらに次のように続けた。具体的に遼のどの州の城なのかは詳しい調査を行う必要がある。この遺跡の発見は遼代と遼代以前の北方少数民族の歴史、文明の発展の程度を研究するうえで重要な意義がある。
通遼地区で古城遺跡が発見されたのは今回が初めて。現在、遺跡のかつての様子、人口、どのような重大な出来事があったか、どうして消滅したのかなどについては、専門家による調査を待つ必要がある。
(新華網日本語=中国通信社)