3月15日、日本の中国語サイト「新華僑網」は「『陰翳感』が日本的美学の本質か」という文章を掲載した。以下は要約。
陰翳とは何か。模糊とした空間における調和の美学のことである。日本人の狭くて長い軒、室内の凹凸のある空間は、光線の明と暗の間で形成される朦朧とした影を作る。生けられた花の周囲、飾り棚の後ろには壁に影が映るが、その壁はあえて浅い色に塗られており、そこに映る陰は薄くなる。西洋人がナイフやフォークをぴかぴかに輝かせるのと異なり、東洋のそれは混濁した中で濃厚な時間感覚を持つ。漆器の表面は柔らかく輝く。これらが陰翳の美学というものである。
谷崎潤一郎は「感覚」を主題に、日本文化の持つ細かい事柄について分析を加える。たとえば能の演者の黒い歯とさらけ出される肌について語る。また、西洋の幽霊には足があり、体は透き通っている。しかし日本の幽霊には足がなく、ほの暗い。これは「荘子」の中の物語を思い出させる。「南海の帝を儵となし、北海の帝を忽となし、中央の帝を渾沌となす。儵と忽と、時に相与に渾沌の地に遇う。渾沌、これを待つことはなはだよし。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀りて、いわく『人皆七竅有りて、以て視聴食息す。これ独り有ることなし。こころみに、之をうがたん』と。日に一竅を鑿つに、七日にして渾沌死せり。」
なぜ混沌はもともと鼻や目がなかったのか。そして混沌に穴を開けたとき、どうして生き続けることができなかったのか。日本人の陰翳は、中国人の言う「混沌」と多かれ少なかれ関係がある。陰翳は暗いことではない。陰翳は光を手なずけることである。色彩の侵略と略奪性を排除するものである。そして最後に中庸の空間を作り出す。電灯のない時代において影はとても多かった。このような明暗が頻繁に交差する際の陰翳は、明るい世界よりも人間の思考と恐れをひきおこす。陰翳は階層である。過渡でもある。谷崎潤一郎のこのような考えは、日本の建築家たちをも刺激した。紙を例に挙げると、西洋の紙は光を反射するが、日本の伝統知己な和紙や唐紙はやわらかく、初雪のようにやわい。光をその中に含み、触感は柔らかく、折っても音がしない。調和があり、明暗の質感がある。谷崎の語りたい陰翳とは、まさにこのようなものだった。
日本人の好きなカーテン越しの会話も、陰翳の体現である。カーテンの中にある顔は常に見えない薄暗みにある。しかし相手に対する興味はさらに増していく。日本人の好きな白は、単なる色彩の空白ではない。数多くの色彩の調和と混交の結合物なのだ。
谷崎潤一郎の後期作品では、日本の古典と東洋的伝統から美を探究している。散文の世界では濃厚な日本であふれ、陰翳の神秘、官能の愉悦、民族的風情が交差する。これは川端康成の「美の存在と発見」にある、ガラスのグラスから太陽の屈折した光に、典型的な日本の美学を見たという文章を思い出させる。しかし今考えれば、それは適切ではない。小津安次郎の映画で、背景はいつでも地味な麻布である。それは反射せず、一種の時間感覚に収れんしていく。つまり歳月というものがあいまいになる。これは陰翳感というべきだろう。こう見ると、この言葉は美学において、崇高、優美とならぶ概念である。それは自己を調和させ、自己を中庸にさせる。それは柔らかい金属である。光を調和させ、最後にひとつの空気を作り出す。