同時にまた「政治と経済不可分」の原則を提起し、政治を抜きにして経済だけを語ることは通らないと指摘し、中国に対し露骨な敵意を抱きながら中日貿易でひと儲けしようとすることは決してできないことであると指摘した。
中日貿易が中断した後、中国から輸入する漢方薬や農業副産品によって生計を立てている日本の一部の中小企業は、破産の危機に瀕した。日本社会党の浅沼稲次郎書記長(1960年に中日友好を主張したため右翼に殺害された)と日本労働組合総評議会の岩井章事務局長が中国を訪問し、中小企業の苦境を伝えた。
バンドン会議で周総理と会見した高碕達之助氏も手紙を人に託して、周総理に詫びを入れてきた。「政治三原則」に照らせば、本来、日本政府がまず対中国政策を改めなければならず、そうしてこそ両国間の貿易と交流を回復することができる。しかし、中日友好の立場から出発し、とりわけ中小企業の実際の困難を考慮して周総理は「配慮物資」の道を開くことを決定した。すなわち、双方の対外貿易部門を避けて、両国の労働組合を連絡チャンネルとし、引き続き中小企業と貿易を行なう。これは「個別的な配慮」とも呼ばれた。
1960年8月、周総理は日中貿易促進会の鈴木一雄専務理事と会見したときに、さらに一歩進めて「貿易三原則」を打ち出した。すなわち、第1に政府間協定の締結、第2に民間の個別契約の実施、第3に「個別的な配慮物資の斡旋」である。実際これは、日本側に貿易関係を回復する具体的な段取りを提起したものであった。周総理はこの三原則について鈴木氏に次のように説明した。
「以前、我々は民間協定を通じて貿易関係を発展させたいと思っていましたが、岸政権は民間協定を認めず、民間協定の実施を保証しないばかりでなく、逆に中国を敵視する政策を取り、協定を破壊しました。私たちはそれを許すことはできず、中日の貿易と交流を2年以上中断せざるを得なくなりました。そして今後、全ての協定は、必ず両国の政府間で締結調印されなければならないと決定しました。なぜなら民間協定は保証がないからです。しかし、政府協定がなければ両国間で商売ができないということではありません。双方は企業と公司の間で民間契約を調印すればよい。契約がうまく履行されれば、両国の政治的環境も良い方向へ発展するでしょうし、短期的な契約を長期的な契約に変えることもできます。中日貿易が中断した後、日本の中小企業が苦しくなったので、中国は『個別的な配慮』の方法を提起し、それは『配慮物資』と呼ばれていますが、それは今後も続けてゆくことができます。必要があれば、その数量を増やしてもよいのです」
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