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サーチナCEO・端木正和氏:留学生から起業家へ
発信時間: 2008-11-28 | チャイナネット

北京週報誌記者 繆暁陽

日本最大規模の中国情報専門ポータルサイト「サーチナ」取締役の端木正和氏

どの時期にも鮮やかな時代のしるしは刻まれるが、どの時代にも人生の運命を変えるチャンスが同じようにあるとは限らない。

改革開放から30年、中国では政治、経済、文化など、さまざまな分野において、きわめて大きな変化が生じた。留学教育は第1陣の開放分野として目覚しい成果を挙げている。1978年、鄧小平氏が留学生の派遣規模を拡大すると指示したことは、改革開放の留学事業の開始を示した。1981年、国務院は『自費海外留学に関する意見書』に指示を書き込んで教育部、外交部などの部門に転送し、その中で、私費の海外留学は中国の留学事業の一部分であり、私費と公費の海外留学生を政治的に平等に扱うべきだと指摘した。1985年、中国は「自費海外留学の資格審査」を取り消したため、留学ブームが更に加熱し、多くの人の運命もこれとともに変わった。1971年に中国福建省で生まれ、17歳の時に日本に留学し、26歳の時に日本で創業し、日本最大規模の中国情報専門ポータルサイトを立ち上げた「サーチナ(Searchina)・中国情報局」取締役の端木正和氏もその中の1人だ。さきごろ、本誌記者が改革開放の留学政策や私費留学、個人創業などの問題について、端木氏に取材した。

チャンスをつかみ、私費留学

「小さい頃、日本に対するイメージは特になかった。父が法律の仕事をしていた関係から、家には『小六法』のような日本語の法律関連の書籍があった。当時、日本語は中国の文語文と似ていると感じ、だんだん漢字を使っている日本に親近感を覚え、その後、日本への留学を決意した」と端木氏は思い出しながら述べた。

80年代前半、海外留学はまだ大学教師、科学研究員など政府派遣の人々に限られ、一般庶民はほとんどチャンスがなかった。数多くの海外留学を期待する若者たちは、仕事したり勉強したりしながらチャンスを待っていた。1985年、チャンスがついに来た、中国政府は一般公民の私費留学を許した。「1986年頃、次々と私費で留学する人が出て来て、その後、留学者の人数はだんだん多くなって、1989年、日本への留学手続きをすませた私は日本に来て、まず日本語学校に入学した」と彼は言う。

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