もう一つは、当時、日本の貿易の4割ぐらいは米国との貿易で占められ、日本と米国は運命共同体になっていました。大学で私を指導してくださっていた教授は、将来、中国との貿易が日本の貿易の3割を超すと、中国と日本は運命共同体になると言われ、その時に、冷静な良い関係、相互依存、相互尊重の日中関係にもっていけるようにしなくてはいけないと話されたのです。経済面から言っても、日中関係が重要だと教えられました。
それから、もう一つは個人的なことですが、高校、大学と同級生だった親友が外交官の息子で、自分は父親のように外交官になって、ソ連問題、日ソ関係を扱いたい、いっしょに外務省に入って、君は日中問題をやらないかと。二人で日本の中ソの外交を構想できる立場になろうと言われた。「よし、やろう」と答えました。親友はその二年後に、赴任先のベルリンで自殺してしまった。その親友の分まで頑張らなければならないとの思いは今でも変わりません。
――先生が言われた大切な中日関係は、この30年間の紆余曲折を経て今日に至りましたが、先生は、「改革・開放」30周年、『平和友好条約』締結30周年までの道のりをどう評価されていますか。
加藤 たしかに紆余曲折があったけれど、大所高所から見るなら、順調に発展してきたと思います。この30年間、日中関係は初歩的な段階から出発して、代々の両国の政治家が一生懸命に拡大・発展に向けた努力を重ねてきました。1990年代に入って、特に鄧小平氏の「南巡講話」以後、経済発展が要になると、民間の経済界の方々に任せておけば、順調に進むとの安心感がありました。ところが、この7、8年、だいぶ緊張感が高まってきています。
日本はといえば、90年代の初頭から、国自体に発展の目標となるべき指針が見えなくなってきた。明治維新では富国強兵・殖産興業を掲げ、欧米のように豊かになることを目標にし、戦後は平和憲法の下で経済復興と諸産業の発展に全力を傾けて来ました。しかし米国人の家庭よりも良い自動車やカラーテレビを持つようになって、目標達成感は満足させられたかも知れないが、その次に日本は何を目標に頑張るのかという指針の設定ができずにいる。
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