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残留孤児の友・中国人作家、友好交流の架け橋
発信時間: 2008-12-11 | チャイナネット

95年に上海へ赴任した于強さんは、仕事に追われる中で、いったん創作を中断して英気を養い、創作のレベルを高めるため、影響力を持つ文学作品の研究に打ち込みつつ新しい素材を模索していた。やがて、上海の中日混血児である朱家平さんから、無情な日本の実父に筆誅を加え、正義を取り戻してくれと頼み込む手紙が寄せられた。嘉定の朱さんの家へ何度も出向いて取材する中で、中日混血児の血の滲むような涙の訴えが再び于強さんの創作意欲とインスピレーションを呼び覚ました。朱家平さんの願いを果たし、日本の対中国侵略戦争が残した影を暴き出すため、于強さんは胸いっぱいの情熱を傾け、わずかな余暇を利用して40万字の長編小説『櫻花璀璨』を完成させた。中日文化交流に長く携わってきた彼は交友関係も広く、数十回も訪日して日本のあちこちを旅しているため、小説に登場する人物や事物の多くにはモデルがあり、人物や情景が生き生きとリアルに描かれている。この小説が06年秋に登場すると又もや中国国内で各界の反響を呼び、多くの新聞、雑誌が取り上げ、各地の放送局がこれを伝えるとともに、映像会社もこの作品の映像化のために現在交渉中という。

于強さんは20数年の間、変わることなく中日文化交流のために大きく貢献し、両国の文化界や友好人士を信服させてきた。彼の創作の道のりを概観すると、称賛されるべき多くのことに気づく。志があれば何事も成し遂げられることを信じてたゆまず努力していること、日本の残留孤児という弱者に対して私心なく愛情を注いでいること、何らかの圧力に対しては畏れず果敢に立ち向かっていること、中日を題材とした文学に希少な境地を提供すべく臨機応変に創作に励んでいること、あっという間に消え去っていく大量の生きた素材を上手に捉えてエキスを取り出していること等々、彼は一歩一歩その足跡を残し、ごく普通の政府の役人から、中日を題材とした小説作家としての成功の道へと踏み出した。

于強さんはすでに60歳を過ぎたとはいえ、依然として中日の文化・経済交流などの各分野で精力的に活躍している。80年代末に彼の提唱により創立された中日詩吟の会が馬鞍市、上海市で数十回開催され、彼は上海の詩吟愛好者を率いて4回日本へ赴き、日本各地の多くの詩吟の会が彼と密に連絡を取り合っており、長野県の聖風流吟道会が彼を経由して四川地震の被災地に義援金を贈ったことも最近嬉しく伝え聞いた。また、彼の仲介で馬鞍市に進出した日本企業が4社あることも知った。残留孤児の友であり、中日両国の友好交流の架け橋でもある于強さんが中日交流という花園で筆を休めることなく、両国の世代にわたる友好のためにいっそう多くの新しいページを書き添えることを心から期待している。

「北京週報日本語版」より2008年12月11日

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