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日本観察記(4)中国のなかに日本の街を探す |
発信時間: 2010-01-11 | チャイナネット |
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文=薩蘇 先日、福岡市は、世界観光機関(UNWTO)を招き、「西日本観光資源フォーラム」を開催した。筆者と新華社東京支社の郭東娜記者は、中国メディアの一員としてこの活動に参加した。 イベントのクライマックスは、柳川で一年に一度開催される「白秋祭」への参加である。驚いたことに、私やそのほかの「白秋祭」に参加する人々に対し、車は用意されていなかった。細長い舟に、一人の精悍なこぎ手がつき、私たちを街巡りに案内した。柳川は、水路の街である。両岸には、柳の枝が揺れ、一言でいうと、日本の蘇州である。 以前の私は、世界に知られる水郷といえば、ヨーロッパのベニスと中国の蘇州の2つとばかり思っていた。今に至り、日本にこのような街があったことを知ったのだ。蘇州でも、小舟がタクシー代わりに使われている。 筆者は、中国と日本で数多くの都市を訪れているが、柳川のことでふいに、多くの日本の街は、中国にその面影を求めることができると思い当たった。街によっては、それが一つとは限らない。日本の街の姿を中国に探すのは、疑いもなく面白いものである。 例えば、福岡の姿は、中国のどの都市にあたるだろう? 福岡は、日本の南部の重要な街といわれ、その点において中国の広州に酷似している。これはもっともであり、二つの都市は早くから姉妹都市になっている。けれど、私が思うには、福岡は中国にもう一つのよく似た姿があり、それは杭州である。 例えば神戸は、日本において古代から、外国に開放された最大の港であり、もっともハイカラな街である。中国のそんな街といえば、どこになるだろう? それは、広州である。広州は中国の鎖国時代、外国との交易を行った唯一の街であり、中国の内陸に外国製製品をもたらす中心地であった。世界各国の商人が広州をおとずれて取引を行い、やがてこの街には、神戸の「異人館」に似た地区が形成され、「十三行」と呼ばれた。また、神戸の人々が通りを鮮やかな花で飾るように、広州人も同じような習慣を持ち、広州はまたの名を「花の街」と呼ばれている。 名古屋は、日本の中部の中心であり、中国にその姿を探せば、おそらく武漢になるだろう。武漢はまた「九省に通ずる地」と呼ばれ、中国中部の中心である。同じように名古屋は、江戸と大阪をつなぐ東海道のもっとも重要な都市であり、中国では、黄金の水路と呼ばれる長江と、南北を貫く京広(北京─広州)鉄道は武漢で交差する。 長野は、日本においてとても特色のある街である。長野は日本で唯一、海に面していない県であり、高原の地では、日本のマラソン選手が国際的な試合に参加する前によくここで高地訓練を行う。この点が中国の昆明を思わせる。中国の選手たちも昆明で高地訓練を行い、この二つの街は、避暑地であり、景勝地で、穏やかな気候である。長野は北部であり、昆明は南部だが、私は昆明ほど長野に似ている場所は中国ではほかにないと思う。 京都と同じように有名な奈良については、仏教寺院で知られているので、頭をひねった。最終的に思いついたのは、洛陽である。洛陽には、中国ではもっとも早期の仏教寺院の一つ、白馬寺があり、付近には龍門石窟がある。奈良の仏教寺院と同じではないが、深層では、相通ずるものがある。 小樽は、日本ではロマンチックな恋愛ストーリーで知られた場所である。北部だが、欧米風の趣きがある。中国のハルビンもそのような街である。ハルビンは、松花江の岸辺に面し、南の貿易船が立ち寄る港からは遠いが、ロシアの影響を受け、独特のヨーロッパの風情がある街である。雪が降ったあと、恋人たちは、ハルビンの通りを肩を寄せて歩き、ロシア風の建築を過ぎゆく。そこには、小樽のロマンチックさがある。けれど、ハルビンでは毎年、もっとも盛大な氷祭りを行い、そこには、札幌の面影も感じられる。そして、札幌といえば・・・・・・またそこには、中国の大連の味わいもある。 以上の記述は、生き生きとしたものではないかもしれない。けれど、日本の旅行者が中国を訪れた際、また逆に、中国の旅行者が日本を訪れた際には、異国に自国の街の姿を探してみて欲しい。それは、私が思うに夢中になれるものである。 薩蘇 2000年より日本を拠点とし、アメリカ企業の日本分社でITプログラミングプロジェクトのマネジャーを務める。妻は日本人。2005年、新浪にブログを開設、中国人、日本人、およびその間の見過ごされがちな差異、あるいは相似、歴史的な記憶などについて語る。書籍作品は、中国国内で高い人気を誇る。文学、歴史を愛するITプログラマーからベストセラー作家という転身ぶりが話題。 「人民中国インターネット版」 2010年1月11日 |
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