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日本観察記(2) 中日間の「数」談義
発信時間: 2010-01-02 | チャイナネット

文=薩蘇

最近、ある友人が中国からやってきた。茶器を携え、日本語の先生に贈るつもりだという。私はそれを見てすぐ、数を一つ減らすよう注意し、友人はひどく困惑した。

なぜなら、その茶器セットの茶碗は4個であり、日本語では「4」は不吉で、そのまま人に贈っても喜ばれないからだ。日本では、贈り物の数は一般に3個である。対して、中国人は陶磁器であれ、お菓子類であれ、4個のセットを贈る。なぜなら中国では「4」は、東西南北の4方向を代表し、4様のものを贈るのは、すべての方角が満たされる、という意味が含まれる。

中日の間では、数字の見方の一部が違い、「4」以外に注意すべきは「9」である。一般に日本人は「苦」と発音が近い「9」を好まない。けれど、中国人にとっては、「9」はもっとも縁起のいい数字であり、それは、すべてが完全に満たされる前、という意味を含む。かように、中国の友人が贈り物をしようとする時には、その数によって、「文化摩擦」が引き起こされる。

けれど、時に、物事はこのように簡単ではない。私はかつて、中国の数字の使用法について、それを明らかにせんとするちょっと変わった討論を目撃したことがある。

私の住む日本の関西地方の小さな町には、中国語教室があり、妻が教室の主任教師をつとめている。

中国語教室の日本人学生は、その多くが中国によく旅行する旅好き、またはすでに引退した元ビジネスマンである。彼らは、日本人に独特の細かな観察眼で中国を眺め、戻ってくると相当に深遠な問題を問いかけ、その問題に対して発生する討論、そこから生まれる結論はまた時に思いもつかないものである。

その日、妻は授業に出かけ、私はクルマで彼女を迎えにいった。教室をのぞくと、まだ授業中で、私は、妻の日本人学生への講義を聞いていた。

教室内には熱気が満ち、ちょうど吉川さんという学生が奇妙な質問を投げかけ、学術的な討論を巻き起こしているところだった。

吉川さんの質問は、次のようなものだった。中国語の悪口のうち、「二楞子」(粗忽)、「二流子」(ごろつき)、二儍子(馬鹿)、二杆子(短気)など表現をみるに、中国人は「二番目」の人に対して偏見があるのでは?

中国体験者が少なくないこの授業において、吉川さんの質問は激烈な論争を引き起こした。なかでも、宝地さんは吉川さんに反駁し、それは単に偶然だといった。彼は例を挙げた──中国人はよく「まるで『二儍子』」みたいだ、というが、別の人はまた「まるで『大儍子』」のようだ、ともいう。意味は同じで、ともに頭が足りないことを指すのだから、特に二番目に対する偏見はない。

宝地さんの意見はとても説得力があった。すると、吉川さんは、日本人の、かの有名なまじめさで、けれど、もしそうなら、なぜ「大儍子」「二儍子」とはいうのに、「三儍子」「四儍子」とは言わないのでしょう?中国人は、やはり一番目と二番目に対して偏見があるのでは?

鋭い質問に、私を含む中国人はみな頭が真っ白になるに違いない。幸い、私は教室の外にいたが、我々、中国人がなぜ「三儍子」とは言わないのか、あなたは、分かりますか?ともかく、私には、分からない。

討論の間、妻は教科書を胸に抱え、教壇のそばに立ち、自信ありげな様子で学生たちを見ていた。

やがて、答が見つからない学生たちの視線は妻の上に注がれた。

妻は自分が総括する番だとさとり、手の平を上げ下げして、まずみなの討論をストップさせた。彼女は、まず学生たちの討論の態度を誉め、次に「みなさん、考えてもごらんなさい。そんなに複雑な問題ではないですよ。中国語のなかに“三儍子”という表現がないのは、実はとても合理的で、偏見とは関係がありません」

彼女はまじめに続けた。「実は簡単で、中国語のなかの『大』は一番目で、『大儍子 』の意味は、一番目に生まれた子供が馬鹿、ということです。『二 』は二番目ですから、『二儍子 』は、二番目も馬鹿、ということです。もし、母親だったら、一番目も二番目も馬鹿だとしたら、三番目を生む勇気があるでしょうか?」

・・・・・・外でこの結論を聞き、私は笑うに笑えない気持ちになった。

実のところ、これは教室のなかが教師も生徒もすべて日本人であるゆえに生まれた誤解である。中国語のなかには一番目にも二番目に対しても偏見はなく、上海人が「豚頭三」とよくののしっていることにもそれは証明される。

「儍子」は、日本語の馬鹿の意味で、「大儍子」は、大馬鹿、である。けれど「二儍子」は、二番馬鹿、という意味ではない。このなかの「二」は、「二百五」の短縮である。中国語のなかの「二百五」は、俗語で、いい加減で、他人にお構いなしの人間を指す。例えば、前回、帰省した時、私は、目の覚めるような赤い柄のコートを着て、空港全体より私のほうが目立つようだった。迎えに来た友達は、私を二本指で指差し、それは私がひどく「二」(百五)だという意味だった。ゆえに「二儍子」は、実際には、馬鹿なうえに「二百五」であり、「大儍子」よりさらにつける薬がない、ということなのだ。

実際のところ、このような解釈も、一般的な中国人は探究しないものである。言語の専門家に聞かなければ、私は生涯、「大儍子」と「二儍子」の違いを明らかにすることができなかっただろう。

もし、日本に来ていなかったら、おそらく、言語学者を尋ね、このような質問をすることもなかったに違いない。

薩蘇

2000年より日本を拠点とし、アメリカ企業の日本分社でITプログラミングプロジェクトのマネジャーを務める。妻は日本人。2005年、新浪にブログを開設、中国人、日本人、およびその間の見過ごされがちな差異、あるいは相似、歴史的な記憶などについて語る。書籍作品は、中国国内で高い人気を誇る。文学、歴史を愛するITプログラマーからベストセラー作家という転身ぶりが話題。

 

「人民中国インターネット版」より2010年1月2日

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