繆暁陽
本誌記者のインタビューを受けるアジア平和貢献センターの西原春夫理事長
辛亥革命100周年を来年に控え、日本のアジア平和貢献センターが主催する「孫文と梅屋庄吉展」及び関連シンポジウムが9月3~4日、北京で開催された。今回の活動の動機や中日両国の民間交流とアジアの地域統合について、本誌記者はアジア平和貢献センター理事長、早稲田大学元総長の西原春夫氏に独占インタビューした。
西原春夫氏へのインタビュー内容は次の通り。
――今回の「孫文と梅屋庄吉展」及び関連シンポジウムの主な主催者として、この活動の動機について紹介していただけますか。
孫文は政治活動をした30年のうちおよそ三分の一に当たる約10年間は日本に滞在していた。したがって何らかの形で孫文を援助した日本人は数多い。その中で、梅屋庄吉の業績は際立っている。どこが違うかというと、第一は、財政的な援助の規模だ。時価最低1兆円、ひょっとすると2兆円になるかもしれない。第二は、動機、考え方だ。当時、日本を盟主とする大東亜共栄圏思想の先駆をなすような国粋主義的な思想に駆られて行動した人があったが、梅屋庄吉はそういう考えを持っていない。「君は兵を挙げ給え。我は財を挙げて支援す」。二十歳代の日中の二人の青年がそういう約束を結び、一生その約束を果たすために努力していた。第三は、何らの見返りも求めずひたすら革命の成就のみを願った志だ。
孫文や梅屋庄吉の理想・志は、アジア人の手でアジアを自由に作ることだった。孫文が亡くなった1925年に、その目標は果たせなかったが、今、ほとんど実現したと私は見ている。だが、まだいろいろな問題が残っている。例えば、国境問題とか、地域紛争とか…これからは、おそらく、革命という形でない形でそういう問題を克服する必要があるではないか。そのためには、われわれの世代ではなく、若い世代がそれをやる使命を持っている。そして、こういう問題を解決するために、政府と政府は力を合わせ、国同士でやるだけでなく、人民同士の力でやらなければならない。そういう意味をこめて、昔、そういう日本人がいた、孫文と梅屋庄吉の友情の活動があったということを、中国人にも、日本人にも知ってもらいたい。人民同士の合作のひとつの模範としてこれを示し、あまり押し付けるような形ではなく、若い人に教えたいというのが私の動機だ。