張宗良は今年50数歳で、日本の新潟市のかなりの規模の中華レストランの経営者である。ここ数日来、張氏は新潟にある中国国民の臨時受入れに毎日2回通って地震の被害の大きい地区から避難してくる中国人に食べ物、スープを提供している。
日本で大地震が発生して三日後、30数名の被害が甚大な福島県から逃れてきた中国国民が在新潟中国総領事館に助けを求めてきた。総領事館は張氏に電話を入れたところ、張氏はすぐに二の句を告げる事なく自分の料理店の宴会場を同胞が夜を過ごす為の場所として提供する事を申し出、彼らのために30数セットの布団を買って用意した。
その後、被災地区から新潟に避難してくる中国人はますます増え、毎日の食糧の必要量はますます増えた。張氏は忙しくて料理店は二日間営業を停止する事になってしまった。
15日の深夜になって、張氏にまた電話がかかってきて翌日に一千人分のスープを作ってほしいと言って来た。料理店を永年経営しているが、依然やるべき事はまだまだ大きなものがあると張氏は考えた。震災後日本の国内では物資の供給に欠乏が出ており、張氏と従業員は多くの商店と市場を駆け回ってやっと必要な材料を集めたのだった。それは豆腐、卵、野菜などである。
これら全てがボランティアベースのものだった。
記者は張氏になぜ自ら進んでボランティアをやっているのか訊ねた。氏の答えは彼のスープと同じく暖かいものであった。「みんな(同胞たち)は早く国に帰りたいと願っているのだから、早く帰れるように手伝ってやれればそれでいいのだ」
ここ二日間新潟の臨時受入れ施設を訪問したとき、記者は多くの張氏のようなボランティアに逢ったが、その人々は新潟地区の留学生や日本で永く働いている中華系の人であった。新潟大学の研究者の鄭月順さんはその一人で、特に婦人とその子どもの世話に力をいれていた。数日前には若い母親が生まれて10ヶ月の幼児をつれて受入れ所にやってきた。その時その子は発熱しており、母親はひどく心配しており、鄭さんはすぐに車に母親を乗せて薬屋に行き薬を買い、スーパーで牛乳と生活用品を買いに出かけた。
20日の昼、記者が鄭さんと話をしたとき、彼女はちょうど新潟空港に行く準備をしており、暫くの準備時間を経て再び日本に帰ってくる同胞の再入国手続きを手伝うのだといっていた。
これらの同胞を助けるために、鄭氏は勤務先に二日間の休暇をもらってきていた。「(臨時受入れ所に)来て様子をみないと落ち着かないのです、彼ら(同胞たち)が少しでも気持ちよく過ごす事ができる事を願っている」と彼女は言った。
新潟には数千人の被災地区から避難した中国の同胞が集まった。彼らは互いに思いやり助け合っており、同じようにこの日々は忘れられないものとなった。
福島県郡山市で仕事をしていた劉艶敏さんは途上でずっと日本語ができない同伴者の世話をしてきた。飛行場に着いて最後の一人の搭乗手続きが済むまで待って、何か問題があれば手伝えるようにしていた。劉さんは細やかに気遣いをして手荷物として液体物は持ち込めないと同行者に教え、安全検査で面倒にならないようにしていた。
劉さんは「私達はこうやって避難して来る事ができて運が良かった。ただ、助けてもらうだけではいけない、できる事があればみんなのために少しでもできる事をやります」と言った。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年3月22日