悲喜こもごものロンドン五輪が終わった。日本から五輪中継を見ていると、中国で見るのとはまた異なる味わいがあった。
なかでも一番印象的だったのが、レポーターの絶妙な解説だ。彼らは英語の外来語を大量に使う。一定の英語の素養がある者が聞けば、親しみを感じたり、あるいはピンと来なかったりすることだろう。
これら和製英語は、外国人との交流を促進するものだろうか。それとも阻害するものだろうか。和製英語の変遷をひも解けば、日本が近代化する過程や、日本の民族意識を垣間見ることができるかもしれない。早稲田大学外国研究員である崔金柱さんが関連する評論を発表している。
早くも16世紀、戦国時代の日本において宣教師が英語を伝えている。しかし真に英語に対する興味が高まったのは、1853年のペリー来航以降である。福沢諭吉は近代日本の英語学習と研究の第一人者であり、近代日本思想の父と呼ばれている。その姿は現在、日本で最も価値の高い紙幣である一万円札で見ることができる。
明治維新以来、日本人にとって英語は愛憎の入り混じった存在である。言語とは国家と民族精神の前提となるものである。日本人の英語に対する態度は、近代日本が伝統を維持しつつ近代を追求しようとした姿の縮図ともいえるだろう。
簡単に言うと和製英語は、日本の伝統と英米文化が日本において混交した結果の産物である。統計によると、現代日本語における日常単語の10%(約5000語)が外来語であり、そのほとんどが英語を語源とする。誇張抜きに、和製英語がなければ日本人は正常な生活ができない。